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2009/12/14 月曜日

井上嘉浩君に死刑判決

Author: 早見 慶子

『カルト漂流記・オウム篇』で井上君について書いたけれど、何の声も届かず、彼は死刑になってしまった。

当時まだ25歳であったことを考えると、人生の重たさを感じる。私のほうが年をいっていた分、かろうじて沈滞している左翼にひっぱられてしまっただけである。私は過激派。そして井上嘉浩君はチベット密教を教義とする宗教だ。

選ぶ組織、指令された任務で人の人生はこれほど変わってしまうものだろうか? 現実の社会に感じた矛盾、それを変えようとして、市民社会の物質的豊かさを拒否してまで生きた純粋さ。

霊的に見たとき、人の生命とは永遠である。だから行為する動機こそが重要だろう。もともとは人間の解放を夢見て、オウム真理教に入ったはずだ。もちろん彼の中に任務に逆らったら、自分が殺されるという不安と、認められたいという弱さがあったことは事実かもしれない。

けれど、それはほとんどの人間がそうではないだろうか? 今の時代、先進国の贅沢と金融資本の支配のために働いているのである。

不要なものであっても売りつけないと生活できない。それは政治的指導者が人々を豊かにするより、世界を支配している資産家に媚びている結果、こうした現実がつくられているのに、従うことしかできないのだ。

そう、それは集団に属したとき、人はそのトップの指令に従うように生活をする。かつてアメリカでこんな実験をした。

人間に電気を流し、ある数字を越えると死亡するということを被験者に伝えた上で、人間に電気を流すのだ。もちろん電気を流される人は役者で、流されているフリをし、苦しんでいる演技をする。

医師はそれでも電気を流せと命令すると、致死量を越えても流し続けたという。これは何人にも同じ実験をして同様の結果を得られたという。

つまり、人間は苦しんでいる人より、自分に指令を下す人間を信じて、従ってしまう習性があるということだ。

だから、出される指令によって何をするのか違ってくる。

それを考えると、死刑執行人というのも指令に従って人を殺す人間だし、看守も監獄という虐待システムに協力をする命令に従う人間として同じことである。

もっと巨大な国家という権力に従う人殺しは許容されている。けれど、霊的にみれば、同じ人殺しである。もちろん判を押す大臣も人殺しであることに間違いない。みんな大衆の死刑願望や、権力の圧力で、自分を守るために人を殺しているのではないだろうか?

だからオウムの人々はもともとの冷酷さとは違う、優等生であったことが問題だったのだと思う。

その上でこの事件、一部ではすでに気づいているように暴力団、ロシア、北朝鮮、台湾マフィア、CIAなど複数の集団がオウムに目を向けて、複雑なかかわりをしてきている。けれど、なぜオウムだけに責任を転化する必要があったのか?

今騒いでいる大麻を吸う芸能人。なぜ末端の使用者が逮捕されて、売っている人たちが逮捕されないのか?

それは逮捕できないのではなく、逮捕したくないからではないのだろうか? そう、大衆を統治したい権力者にとって、利用価値が高いからだ。

大衆は末端の処刑を見て、火事場の火をみるような興奮のほうが真相よりも大切なのだろうか?

オウム事件の中心にいた村井さんを殺した人は、なぜ村井さんでなければいけなかったのかを明らかにしないまま、指令を与えた暴力団幹部を放置しているのは何でだろう?

事件の真相を隠したまま、死刑にするだけでいいのだろうか?

その上で、信者たちの置かれた苦境のことを考えてみたい。

結局人は死ぬ。いや、肉体は滅びる。けれど、人の魂が永遠であるとするなら、今この世でつぐなえることは幸福なことかもしれない。

過去の歴史で真剣に生きてきた人々の多くは、ローマ帝国の時代からあからさまな残虐刑によって殺されてきたのだ。

逃げることなく、腐敗を指摘して殺されていった人たち。ソクラテスもキリストも処刑されている。

その勇敢な生き様によって、多くの人に影響を与えることができたのだ。知的で愛に満ちた生き方。

オウムの人たちにとって、もし人を殺してなかったら、もっと誇りを持つことができたに違いない。それは自分で自分を見つめたとき、どこか汚点のように残ってしまう傷跡だ。

一人一人が自分の内面にこそ従う勇気があったならば、教祖や幹部の指令をいったん自分で租借しただろう。けれど、自分の意識をいったん別人に占領させてしまったのだ。

けれど、そのことは一番本人が苦しんでいることに違いない。

たぶん人はどこかの過去生で人を殺した人生もあったし、殺された人生もあったはずだ。

大切なことは過去に執着せず、未来を生きることだ。そう、人のために生き、自分や他人の罪を許すのだ。

この時期、監獄は寒いだろう。自由のない空間が永遠に続くことは絶望的かもしれない。けれども、その中で、心の天国を見出してほしい。

私は、オウムの信者のような罪びとが、今、多くの人々に勇気を与えていることを知っている。今、彼らたちの心はピュアなのだ。

また、死刑を叫ぶ人たちも、いつか自分の心の貧しさに気づくだろう。復讐は結局、新たな憎しみを作り出していくだけなのだと。

カルマは憎しみという執着によってつくられていくのだから、愛によって連鎖を断ち切り、自由になったほうがいいと気づくだろう。

彼らたちの罪は私の罪。多くの人に役に立つような生き方をしたいと思う。損得を抜きにした思いやりで。


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