4月23日に法政大学でデモやるのに誘われて参加してみた。昨年に比べてノンセクトの人はほとんどいなかったように思う。
4月だというのに最高気温が10度という寒さは、立っているときに肌にしみこんで来た。
ところでこの集会のとき、白髪の人やOBと思われる人がやたらと警察に対してヤジを飛ばしているのが目立った。
「やーい、お前なんか警察署長じゃない。巡査部長だ」「おまえら帰れ」「お前ら恐いのか」とずっとなじり続けている。
この光景を歩く大衆が見たらどう感じるのか考えてほしいと思う。
世の中を変えるのは大衆である。大衆の支持がないクーデターは簡単に崩壊してしまうものだ。
ガンジーは裸で裸足で歩いていた。それはインドの一般人の姿をすることで民衆の側に立とうとしたのである。だからスーツを着てなくても大衆の支持は得られたのだ。
さて一般の大衆が人を説得しようとするとき、「お前ら恐いのか、恥さらしだ」という言葉は使わない。これはチンピラが人を恐喝するときに使う言葉だ。
もちろんこんな言葉を使う人たちに敬意を払う人はほとんどいないだろう。そう、彼らには革命家になるという意識が欠落しているのだ。
たぶん自分たちの勉強してきた一部の知識が正しければ人がついてくるという錯覚は、インテリにありがちな思いあがりのように思えるけれど、実はこれ、最近の活動の行き過ぎた典型のように思う。
最近は仲間を求めて集会に参加する人が増えてきたので、不満だけを語る人が多くなってきた。つまり、社会というのを客観的に分析し、何が原因でそのようになっているかを理解し、そのためには何が必要であるかを導き出して、解決できる方法をさぐるという社会をよくするための奉仕的精神で参加しているのではない、ということだ。
それは自分の不満を聞いて欲しくて参加したり、自分を認めてほしいから参加する。だから自分という限られた視野からなかなか解放されていかない。いい年をしても不平不満を叫び、なじり続けるのは、文句を言うことを目的として参加しているからだろう。
問題を解決するために参加してきて、何も解決できなければ、賢い人は自分の理想と自分の力があっていないのか、自分が解決しようとする方法が誤っていたのか、という冷静な分析をするはずだ。
かつて中核派も命をかけて活動していた時代があった。小西誠さんとは思想は違うけれど、彼の中には修羅場を生き抜いたオーラがあった。ところが今は、組織温存のための糾弾しかできなくなってしまったのは残念だ。
人間は人を尊敬するから活動に参加するわけだ。
だから革命家(あるいはリーダー)になろうとする場合、どういうような人間に自分がなっていくことなのか?という問いを自分に発さなければならない。
人に言われたら不愉快なセリフを人に向かって投げかけるべきではない。不愉快なセリフは人間の糞尿のようなものだ。人に自分を理解してもらうときに自分の好きな食べ物を与えて、これが私の好きな料理ですと差し出すならわかる。
けれど警察に向かって投げられた糞尿は大衆にもまき散っていることに気づいているだろうか?
さらに公判のときに「黙れこのブス」というヤジを飛ばしていたという話を聞いた。これはハラスメントの言葉なので、市民社会の人間が使うことはほとんどない。
活動家に品格がなくなった時代、すたれていくのは必然であろう。
本当に社会を変えようとする者は人間を大切にする人だ。明治維新のとき、勝海舟と話し合い、外国勢とも交渉する政治力があったのは、人間を理解し、大切にしていたからこそ、交渉ができたのだ。
隊列の中で「お前なんかクズだ」「このブス黙れ」とは誰でもできる。けれど人を説得することはものすごく難しい。この違いをゴマカすために協力しない大衆が悪いとか、指導者が悪いとか他人の責任しているため、自分という人間をずっと客観視できないでいるのは悲しい。
大学の総長や警察官と交渉する力を失った人たちは、大衆をひきつける魅力さえ、どんどん後退させるしかない。
そんな一コマがデモの途中であった。お弁当やさんの車がデモ隊に挟まれて出られなくなり、警察に抗議をしていた。お昼だからお弁当を早く配達しろとお客に文句を言われることは間違いない。このご時勢だ。休憩時間に遅れることは、お弁当やを切りかえられる危機でさえある。
かつてリーダーシップがあった時代は、デモ隊のリーダーがきちんと隊列を分けて、車を移動させ「お仕事お疲れさまです」と声をかけていただろう。
たぶんこのお弁当の配達の人は「仕事しない暇人が日中からデモをしていて、警察はこの人たちの味方しているんだな。何という時代なんだろう」と。
革命家の品格とは、自分より他人を思いやることであるはずだ。「人民のために命をかける」とはもはや遠い彼方の言語である。もちろんこの「人民のために命をかける」というのも取り違えると、危険な言葉であることは間違いない。
けれど、ソクラテスやキリストも処刑されてきた歴史の中で、命をかけることは心に正直に生きる者の宿命のような気がする。そこで、人間は命について考えることはしてきたはずだ。聖人は永遠の生命を理解しているから、命を失わないことを知っている。だから、肉体を失うことを恐れない。
けれど、競争社会で人間をライバルとして認識してきた若者が、急に命をかけるから、どこかで功名心と不安が一体となっているはずだ。
そして命を失うことに恐怖を感じるから、激しい闘争のときはものすごく緊張する。そんな中で判断を誤って粛清もあったことは残念だ。
ところが現代では、徒党を組んだときにだけ、ヤジを飛ばす総会屋のような働きしかできなくなってしまっている。もう少し自分たちの歴史を学び、結成時代のリーダー、本多延嘉氏に恥ずかしくないような革命家を目指してがんばってほしいと思う。
内ゲバは悲惨な歴史であったに違いない。それは負の遺産だ。けれど、その死の恐怖を果敢に生き抜いた美徳は革命家の誇りであったはずだ。もう一度誇りを取り戻してほしい。
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Archive for 4月, 2010
2010/4/30 金曜日
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2010/4/20 火曜日
「今こそ、21世紀の明治維新を!」の講演会を聞く
4月19日に再生日本21主催の「今こそ、21世紀の明治維新を!」という講演会に参加した。 |
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