早見慶子の十条日記 » 2009» 12月

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2009/12/29 火曜日

この一年をふり返る

Author: 早見 慶子

今年の自分につていはロフトで赤木智弘さんと対談したことから、始まり、忙しい一年だったと思う。

本を書くためにパートになったのだけれど、シフト数が少ないので、別の薬局に勤めたのだけれど、二ヶ月の間に八人もの事務の人が辞めるほど、厳しい運動部体質の職場だった。これまでの職場が人間関係がとてもよかったので、硬直した関係は見てて辛いものがあったけれど、自分を鍛えるためと、続けてきて、結局来年も働くことになってしまった。

そのあいまを縫って「カルト漂流記・オウム篇」を出版することができた。もともとはオウムの死刑囚たちが、一歩違っていたら、社会で活躍できる人間になっていたと思うと悲しくて書いた本だった。

オウムについてはすでに社会的に抹殺されているらしく、マスコミでもほとんど取りあげてくれなかった。けれど、あの裁判がオウムだけの問題にすりかえてしまったことは事実だから、おかしいと思っている人も少なからずいることがわかったことはありがたいことだった。

そのからみでジュンク堂で島田裕巳さん、大澤信亮さんと対談できて、軽蔑することで問題を捉えず、理解しようとする空間ができたことはとてもよかったと思う。

今の運動の中ではホームレスが最も人権がないと思っている人も多いけれど、死刑を待つために監獄にいるほうが苦しいのではないだろうか?

少なくともホームレスの人たちは青空を見れるし、自由に歩くことができる。閉じ込められた人は看守の許可がないと何もできないし、自由な会話だってできない。

出られるときは死んだときだけだし、自殺しないように管理され続けているのだ。けれど、もっと過去の時代は劣悪な環境で、拷問もあったことを考えれば、まだ現代のほうが、改善されているのかもしれないけれど。

法政大学でもいろいろな学生が逮捕されて、運動をする学生が退学となり、いよいよ厳しい状況になってきているのが現状ではないかと思う。

再生の前の破壊。若い人たちの情熱はいつの時代も破壊的だったりするけれど、その中で何かを感じれば、それは素晴らしい生き方なんだと思う。

だから、死刑に確定した井上嘉浩さんもきっとその絶望の中で、別次元の光を見出すに違いない。私はそう信じている。賢人たちが監獄の中で、さらにその偉大さを増してきた歴史は数え上げたらキリがないのだから。

ニューヨークに行ってイベントができたのは楽しいことだった。去年より寒かったから、公園で長居はできなかったけれど、あの広さと、人々の寛容な心は日本の萎縮した環境と比べてとてもノビノビできてよかったと思う。

そんな中で政権交代、オバマ氏の大統領就任とノーベル平和賞の獲得という不思議な現象が世界で起こっていた。

私はもともと選挙なんて茶番だと思っている。得に二大政党制はみんな違う意見をムリに二つにして、統制しようとしているように思えて、自然ではない。

本当の人間の自由とは政府の干渉がなくても生きられる強さを人間が取り戻すことなのだ。今の左翼運動の流れは政府からいろんなことを保障してもらおうと、依存度を高め、自立することとは全く違った道を歩んでいるように感じた。

人間は本当は何でもチャレンジできるし、ヘタでも楽しめればいいのだと思う。子どものときは何でもやらされるし、こなす柔軟性がある。けれど大人になると飲みに行くことしか思いつかなくなる。何でだろう。

一日の大半を職場で過ごすうちに、休みのときは眠ることしかできなくなってしまうのは、他人の人生を生きているようなものだと思う。

そういろんな文章を書きながら、私の夢はみんなが自分の強さを思い出すこと。他人に依存しなくても一人で充分強いことを思い出すこと。その上で人との関係を依存関係でなく、対等な友人関係にしていくことだ。

人が人を軽蔑しているうちは本当の自由はない。自由とは何もにもとらわれないことであり、それは環境が劣悪でも自分を見失うことのない精神の解放なのだ。

そういう意味では死刑を待つ人たちも、最大の試練と苦悩を持ちながらも、最高の精神に自分を高めるチャンスを得たのかもしれない。

まだまだ自分の弱さもあった年であるけれど、弱さがあるということは、強くなれるということだから、もっといろんなことに挑戦できるようにがんばりたいと思う。


2009/12/14 月曜日

井上嘉浩君に死刑判決

Author: 早見 慶子

『カルト漂流記・オウム篇』で井上君について書いたけれど、何の声も届かず、彼は死刑になってしまった。

当時まだ25歳であったことを考えると、人生の重たさを感じる。私のほうが年をいっていた分、かろうじて沈滞している左翼にひっぱられてしまっただけである。私は過激派。そして井上嘉浩君はチベット密教を教義とする宗教だ。

選ぶ組織、指令された任務で人の人生はこれほど変わってしまうものだろうか? 現実の社会に感じた矛盾、それを変えようとして、市民社会の物質的豊かさを拒否してまで生きた純粋さ。

霊的に見たとき、人の生命とは永遠である。だから行為する動機こそが重要だろう。もともとは人間の解放を夢見て、オウム真理教に入ったはずだ。もちろん彼の中に任務に逆らったら、自分が殺されるという不安と、認められたいという弱さがあったことは事実かもしれない。

けれど、それはほとんどの人間がそうではないだろうか? 今の時代、先進国の贅沢と金融資本の支配のために働いているのである。

不要なものであっても売りつけないと生活できない。それは政治的指導者が人々を豊かにするより、世界を支配している資産家に媚びている結果、こうした現実がつくられているのに、従うことしかできないのだ。

そう、それは集団に属したとき、人はそのトップの指令に従うように生活をする。かつてアメリカでこんな実験をした。

人間に電気を流し、ある数字を越えると死亡するということを被験者に伝えた上で、人間に電気を流すのだ。もちろん電気を流される人は役者で、流されているフリをし、苦しんでいる演技をする。

医師はそれでも電気を流せと命令すると、致死量を越えても流し続けたという。これは何人にも同じ実験をして同様の結果を得られたという。

つまり、人間は苦しんでいる人より、自分に指令を下す人間を信じて、従ってしまう習性があるということだ。

だから、出される指令によって何をするのか違ってくる。

それを考えると、死刑執行人というのも指令に従って人を殺す人間だし、看守も監獄という虐待システムに協力をする命令に従う人間として同じことである。

もっと巨大な国家という権力に従う人殺しは許容されている。けれど、霊的にみれば、同じ人殺しである。もちろん判を押す大臣も人殺しであることに間違いない。みんな大衆の死刑願望や、権力の圧力で、自分を守るために人を殺しているのではないだろうか?

だからオウムの人々はもともとの冷酷さとは違う、優等生であったことが問題だったのだと思う。

その上でこの事件、一部ではすでに気づいているように暴力団、ロシア、北朝鮮、台湾マフィア、CIAなど複数の集団がオウムに目を向けて、複雑なかかわりをしてきている。けれど、なぜオウムだけに責任を転化する必要があったのか?

今騒いでいる大麻を吸う芸能人。なぜ末端の使用者が逮捕されて、売っている人たちが逮捕されないのか?

それは逮捕できないのではなく、逮捕したくないからではないのだろうか? そう、大衆を統治したい権力者にとって、利用価値が高いからだ。

大衆は末端の処刑を見て、火事場の火をみるような興奮のほうが真相よりも大切なのだろうか?

オウム事件の中心にいた村井さんを殺した人は、なぜ村井さんでなければいけなかったのかを明らかにしないまま、指令を与えた暴力団幹部を放置しているのは何でだろう?

事件の真相を隠したまま、死刑にするだけでいいのだろうか?

その上で、信者たちの置かれた苦境のことを考えてみたい。

結局人は死ぬ。いや、肉体は滅びる。けれど、人の魂が永遠であるとするなら、今この世でつぐなえることは幸福なことかもしれない。

過去の歴史で真剣に生きてきた人々の多くは、ローマ帝国の時代からあからさまな残虐刑によって殺されてきたのだ。

逃げることなく、腐敗を指摘して殺されていった人たち。ソクラテスもキリストも処刑されている。

その勇敢な生き様によって、多くの人に影響を与えることができたのだ。知的で愛に満ちた生き方。

オウムの人たちにとって、もし人を殺してなかったら、もっと誇りを持つことができたに違いない。それは自分で自分を見つめたとき、どこか汚点のように残ってしまう傷跡だ。

一人一人が自分の内面にこそ従う勇気があったならば、教祖や幹部の指令をいったん自分で租借しただろう。けれど、自分の意識をいったん別人に占領させてしまったのだ。

けれど、そのことは一番本人が苦しんでいることに違いない。

たぶん人はどこかの過去生で人を殺した人生もあったし、殺された人生もあったはずだ。

大切なことは過去に執着せず、未来を生きることだ。そう、人のために生き、自分や他人の罪を許すのだ。

この時期、監獄は寒いだろう。自由のない空間が永遠に続くことは絶望的かもしれない。けれども、その中で、心の天国を見出してほしい。

私は、オウムの信者のような罪びとが、今、多くの人々に勇気を与えていることを知っている。今、彼らたちの心はピュアなのだ。

また、死刑を叫ぶ人たちも、いつか自分の心の貧しさに気づくだろう。復讐は結局、新たな憎しみを作り出していくだけなのだと。

カルマは憎しみという執着によってつくられていくのだから、愛によって連鎖を断ち切り、自由になったほうがいいと気づくだろう。

彼らたちの罪は私の罪。多くの人に役に立つような生き方をしたいと思う。損得を抜きにした思いやりで。


2009/12/7 月曜日

『1Q84』の秘密

Author: 早見 慶子

 村上春樹の小説『1Q84』は1,2合わせて220万部以上売れているヒット作だ。だから買って読んでみた。彼のの小説は海外で売れるような作品のつくりになっている。

 今、海外の小説の多くは二つの全く違った人間のドラマが交互に繰り返されていて、最後にこの二つのストーリーの主人公がクロスし、つながっていく展開のものがほとんどだ。

 最初からバラバラだけど、どこかでつながっていると思うと、ていねいに読む。そうしないと後の結末が楽しめないからだ。

 村上春樹はジョージ・オーウェルの『1984』にひっかけて『1Q84』をタイトルにし、このQによって歴史の流れがかわっていくかのように、単なるダジャレではない、大きな問題提起をしているように思った。

 青豆と天吾がかかわるカルト教団。それは彼のイメージではオウムとヤマギシ会をモデルにしているのだろう。そして青豆の親が証人会ということで、この証人会は明らかにエホバの証人を意識しているように思った。

 なぜなら、輸血を拒否しているという教団とハッキリ書いているからだ。

 さて、宗教めぐりをしてきた私はここで ? と思った。彼らはなぜ、青豆が人を殺すように冷めた心になったのか、を子ども時代のトラウマに持っていっている。

 親が証人会に夢中で、その子ども青豆も差別され、変わった女の子であったけれど、天吾は他の子どものように差別せずに接した。その女の子は証人会に入らないので、親からネグレクトされ、一人で生きていく道を選ぶ。

 この小説では証人会が1、輸血を拒否する常識外れた集団 2、子どもが信者にならないとネグレクトする無責任な集団 3、近所の葬儀などにも宗教が違う理由で参加しない集団、として表現されている。

 さて、1の輸血についてだけれど、輸血は人を生かす力となれば、殺す力にもなるものだということである。家庭科の授業で、親の血液がA型やB型であるとき、O型の子どもだと胎内で子どもを危険にさせることがあり、逆に親がO型で子どもがA型やB型であると親の状態が悪くなることがあると教わった。

 O型はすべての人に輸血できるけれど、O型からしか輸血してもらえない。このルールを破ると血液が凝固して死んでしまうからだ。

 またB型肝炎、C]型肝炎などは大半が血液によって広がっていってしまった病気だ。輸血のときの検査も、初期感染だとほとんど発見できない。ある程度ウイルスが増殖しないと反応しないからだ。

 もちろん今ではだいぶリスクは減っているけれど、かつて危険であったことは間違いない事実だ。

 輸血による可能性にかけるか、リスクをとるかは個人の自由だと思う。ただ、子どもの輸血に対しては、親が決めるのではなく、子どもの意見にゆだねるべきであると思う。さらに、いったん病院にかかると医師の判断に従うようになるため、そこで対立が起きてしまう。

 宗教であるならば、輸血だけを否定するのではなく、ヨガや針、漢方、気功など他の治療を追及してもいいのでは、とは思う。

 2でのネグレクトは、明らかに一般の家庭のほうが多いのではないだろうか? 特に日本では他人の家庭に口出しをしない人が多いので、放置されて死ぬ人数が多いのは残念なことだ。

これはむしろ現代社会では人間の価値がお金で換算されることが多い。そうすると手のかかる子育てや介護にお金が入るどころか出て行くことへの苛立ちによるものだろう。

 かつてはその手のかかることをきちんとすることが人間の価値であった。自然にある果物を食べてもいいのに、田を耕すシーンが旧約聖書には出てくる。それは神に喜ばれるためであった。労働することはもともと奉仕であり、誇りをもてる喜びでもあった。

現代のようにお金信仰が強いと、損得で考える人が多くなり、しいては虐待、ネグレクトも増えているのだろう。

だからこのネグレクトを証人会に押しつけるのは納得できず、エホバの証人に対して失礼ではないかと思った。無意識に読み手に偏見を与えていくことをむしろ計算しているのは? という疑ってしまった。その理由は後で書く。

さて3の近所の葬儀に参加しないのは、決してエホバの証人に限ったことではない。私の知っているドイツ人も宗教の自由があるから、近所の葬儀を断ったという。もちろんキリスト教のやり方で、その人の冥福を祈るこはしたはずだ。

 けれど、そうしたことで差別されることになってしまったという。宗教の自由ではなく、それは宗教の強制ではないのか? と。

 海外ではいろんな宗教が共存しているのが当然だから、葬儀への参列という人間関係より、ボランティアなどの活動を通じて地域に貢献しようとする人々が多い。

 だから仏式、神式に参加しない人は村八分という、従来の保守的な関係こそ、考え直す時ではないだろうか?

 葬儀よりも、冥福を祈る気持ちのほうを大切にしてもいいのではないだろうか?

村上春樹はこうした行為を「狭い世界にしか生きていない」と表現しているけれど、この世界そのものに生きる一人一人はみんな狭い世界に生きている一人だと思う。

 さて、日本ではそれほどメジャーではないエホバの証人。新興宗教として力を持っているのは創価学会や幸福の科学、生長の家などいくらでもあるのに、あえて選んだのはバチカンがらみではないだろうか?

 ニューヨークに行ったとき、村上春樹が教壇に立ったコロンビア大学のことを思い出した。ニューヨークでは「エホバの証人」と「モルモン教」は新興宗教であり、差別されているということを知った。

 そう、アメリカでは「エホバの証人」はバッシングを受けているのだ。彼の小説は展開も内容もアメリカを意識している。私はアメリカでの「エホバの証人」は知らない。

 けれど、日本のエホバの証人の人は、よく部屋を訪ねてくるので、友だちになっている。それに仲のいい高校の同級生もエホバの証人である。だから、差別されるような人格ではなく、人より優しくて明るい。

 そもそも宗教に入るというのは、どこかで何かあったことの証だ。それは、何かあってトラウマになり自信をなくしたとか、弱い者の味方をして、同じように差別されたとか、社会のシステムは人間を軽視しているとか・・・

 村上春樹のようなエリートにとっては世界は広いはずだ。コロンビア大学で教える自由があり、新潮社からの信頼もあり、イスラエルで賞をもらっている。けれど、お金がなく、地位もない人は自分に自信がないため、自分を売り込めない。

 いつの間にか、中小企業でさえなかなか就職できなくなってしまった自分にショックを受けたりする。それはある人にとって宗教だけが自分を受け入れてくれる場所であったりする。

 悟った人間はむしろ孤独の喜びに浸ることができるけれど、多くの人は共同体から孤立したら、自分がわからなくなってしまうことが多い。

 人間との呼応関係によって人は自分であることを確認できるのだから。

新興宗教がなぜ生まれたのか、という歴史を考えず、現代のほうが自由だという想定で書かれているのは、現在の地位を守りたいという権力者の意識を反映させているのではないだろうか?

 青豆を一般的なネグレクト家庭にしなかった理由を彼に問いたい。