早見慶子の十条日記 » 2009» 8月

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2009/8/28 金曜日

政権交代を煽るマスコミ

Author: 早見 慶子

ここのところ選挙といえば「政権交代」が語られ、民主党が優位な情報が流されていく。病気といえば、新型豚インフルエンザが登場するように。

毎年インフルエンザで死亡する人も2007年で696人いる。けれど、インフルエンザに感染し、肺炎になって死亡した場合は、肺炎が原因とするため、データに含まれないので、感染によって肺炎になって死亡した人はこの8倍くらいいるとされる。

だから2006年では6849人が関係死しているという。タミフル騒動でインフルエンザによる死亡が軽視されたせいだろう。

民衆の意識はメディアによってかなりつくられているから、かつてはタミフルを恐れ、今はインフルエンザを恐れている。そうメディアに誘導されて。

さて、この「政権交代」というキャッチフレースは将来の二大政党制を意識して誘導しているのだろう。世界のシステムは西洋、特にイギリス→アメリカというパターンと、フランスを中心としたヨーロッパ権のパターンを導入させる傾向になってきているのではないのだろうか?

陪審員制度も強制的に導入され、仕事があっても任命されたら、断ってはいけないという。つまり、国家が強制力を持つ制度で、その人を拘束する権利と、国民は拒絶する自由を失うという強引な導入である。

先日市民運動の人と交流したときに、「政権を交代させたい。けれど民主党の議員がイヤな人で傲慢なんだ。だからあの人には入れたくないし」ともらしていた。

ということは候補の顔より政党のほうが優位である、ということを示したのが「政権交代」というキャッチフレースではないのだろうか?

今や民主党は議員になりたい候補者が多くなってきた。人数が足りないので、イケメン、美女を顔にするケースもいくらかある。民主党を選んだほうが有利だと損得で入る人も多々いるようになってきた。

元来人はみんな意見が違う。それに責任感が強い人柄もいれば、口だけの人間がいる。人のいうことを理解しようとせず、自分の主張にしか関心のない人もいる。

だから個人の顔で議員をやるのが本来の姿なのではないだろうか?

マニフェストと言っても知らないところで法律は無数に作られ、変えられている。もちろん国民が知らない間に。

かつて自民党は郵政民営化に同意できない議員を公認から追い出していった。ひとつでも反対する人は党員の資格はないと。

だから二大政党制とは党首の意見にすべて同意する人だけが残れる政党になってしまう。そこで、議員に当選したいだけの人は、決まったことにタテつかないだろう。けれど、自分の頭で考える人は納得しないことで妥協はしない。

そうすると党からはみ出して、議員になることさえ、難しくなってしまう。

みんな違う。だからその議員の政策、人柄に対して投票するほうが自由なはずである。

いずれにしても、私の周囲の人に「民主党がとったら、明日の仕事が楽になると思いますか?」と聞くとみんな「同じ職場で、同じ仕事が待ってるよ」と答えは決まっている。

そう、選挙は野球のゲームと同じように応援したチームが勝利するかどうかという擬似体験をするだけで日常は変わらないのだ。

つまり誰かを助けるフリをしてさらに多くの税金を課すのはどちらも同じなのだ。簡保の宿をただ同然で親しい人に売り渡し、転売して多額の利益を出している裏政治を根絶しない限り不正はなくならない。

子ども手当てを年一人31万円2000円を支給するとは一人暮らし、あるいは子どものいない家庭から取り立てていくことだ。その支給とは年収の少ない家庭なら理解できる。株によって一日で何億、何百億と儲ける人の子どもでも、同じように支給するとは、金持ちは富み、体が弱くて子ども産めない人は税金が増えるだけなのである。

今は末端は24時間営業が普通なので、日中働いても夜中に呼び出されることだってある。変化がなく、休みのない毎日がどれほど監獄のような生活なのか、政治家にはわからないに違いない。

豊かな人にはあげないし、税金を多くするか、寄付を持ちかける。その一方で貧しい人には何かと支援する、という議員もいてもいいのではないか? そう金持ちに恨まれることを怯えない勇気を持って。

金持ちを遇したほうが票につながり、貧乏な人はたいてい日曜日も仕事で、疲れているから投票には行かない。だから、金持ちをひそかに尊重したほうが選挙では有利になるのだろう。

本当は人間はそれほど政府に依存して生きてはいない。労働によって生産したものと自然の恵みによって生きている。だったら自然に優しく、労働するものに優しい生き方をしていくことが大切なのでは、ないだろうか?

投票によって変わらない。人間の生き方を変えなければ変わらない。多くの人にとっては、学校の先生が代わったり、上司が変わることのほうが大きな変化なのだ。

「革命」という幻想がロシア以外の民族にとって不利益をもたらしたように、現実の幸福は自分の手でつくるしかない。みんな自分の可能性を他人に託すのではなく、自分の力こそ信じて生きたほうがいいのではないか?

だから私は人間個人を選び、党に依存しないで立候補できる環境にならない限り、ますますエリートがつくり上げた共同幻想に組み込まれてしまうだけだと思う。

二大政党制という人間管理システムは「人間はもっと豊かに思考できるし、考え方を変える自由もある」ということを尊重しない、大きな権力をつくり上げていくのでは、と危惧する。


2009/8/19 水曜日

幸福実現党の人と会う

Author: 早見 慶子

今年のお盆は初盆なので、お寺に棚行にいく慣わしがある。その翌日、紘基会という市会議員の寺本泰之さんや有権者ネットワーク“ピープル”代表の奥宮芳子さんが中心となった勉強に参加した。

そこでの演題は幸福実現党高橋信弘さんという愛知県本部副代表の方が発言することになっていた。

すべての候補の意見を聞くことが主旨だそうだ。

私は90年代にオウムと肩を並べ、競いあった幸福の科学のことを俗世の宗教だと思ってあまり関心を持っていなかったつもりだった。

でもあれからも地道に成長し、信者が日本で300万人もいるという。世界では10億人だそうだ。もちろんこれは名前だけの人も含まれているに違いない。

なんだか懐かしい存在にふれたようでちょっとワクワクした。

その高橋さんという方はとても穏やかで、感じのいい人だった。たまたま「カルト漂流記・オウム篇」を持っていたので、名刺がわりに渡した。

彼は「オウムと私たちは一線を画してましたから」と語った。私は「イヤ、この本はオウムに好意的な本ですから」と俗世間の意見と違うことを伝えた。

彼は私の本にすぐお金を出そうとした。押し売りみたいで悪いと思い、「勝手に渡したのだから、お金はいいです」と断ったら「私は本を読むのが好きですから」とお金を出してくれた。

とても親切で礼儀正しい接し方をすると思った。そのスタッフの方も丁寧で穏やかなのは同じだ。そう、声の発音の仕方から、抑揚まで、きれいにコントロールしていて、不快感を与えないように気を使っているかのようだ。

主張の中で北朝鮮の問題については、私は全く違ったスタンスだ。彼らは金正日を日本に連れてきて、裁判をするべきだとまで主張する。拉致問題が進展いないことなどに対する危惧のことを話していた。たぶんそういう相談をいろいろ受けているせいに違いない。

けれど、他国が他国のトップが気に入らないからと、裁くのはその国の民衆をムシした対応だ。金正日でいいかどうかは、北朝鮮の人が決める問題で、日本人がとやかく言うべきではなく、拉致問題に対する交渉までが外交として赦される範囲だと思う。

そういう違いがあっても私は人物のほうが重要なので、とても好感を持ったことは事実である。

後で北朝鮮のミサイル問題になったとき、若い市会議員を目指す人は、「核ミサイルは経済がガタガタだから、交渉に使うためにやっているのではないか」と語っていた。

私もそう思う。恐れすぎている。

日本に軍備は必要か? という問題になったとき、私にも質問がきた。

東京の報告をするということで、話をしたからだ。

会場にいる人の多くは日本も軍事力を持つべきだと思っている感じがだ。そういう威圧感を感じる。

私は意味がないと話した。核を持ったところで、アメリカには勝てない。核を運ぶミサイルの性能だって違う。

それに軍隊だって死の瀬戸際を彷徨ってきたアメリカ兵とは全く違う。武器は使いこなす人がいないければ、力にならない。

活動家時代、右翼に襲撃されたとき、武器を持っていても咄嗟に使えなかった私たちのことを思い出す。武器はいつもは使ってはいけないものだから、そういう認識でしかない。

だったら意味のない武力より、交渉で対応したらいい。私は女性だから力では男に勝てない。

だから戦闘意欲をなくさせることが闘いだった。

それに軍隊が殺されるわけではないのが、戦争だ。むしろ今は普通の人たちを狙い、相手の抗戦意志をくじこうとしているのが、現実だ。劣化ウラン弾を、みたらいい。

だから軍隊は守ってくれない。そんな言論しかできなかった。

そしたらある人から、それだったら「一緒に死のう」と言ってもいいのではないか、と言われた。

そうだ、これからは「意見は自由に述べましょう。やられることを恐れないで、発言しましょう」と語ればいいのだと思った。

「殺されてはいけない」という意識がある人々を軍事に駆り立てていく。武器を持っていることと発言をしっかり言えることは違う。ダライラマだって自分の見解をしっかり語る。そう思うと人の反応を気にせずに語れると思った。

幸福実現党の人もイラクで酸素をなくす武器が使われて、窒息死する人が多かったことという情報もあると教えてくれた。

オウムと幸福の科学。人間の解脱という理想を掲げたのはオウムだったけれど、幸福の科学のほうが発展したのは、現実に即した考え方をしてきたせいなのだろう。

とてもおもしろい出会いで、もっといろいろ話してみたい人たちだった。

それでも仏教とは悟ることであり、それは何でもできるようになっていくことだと思う。つまり自分で自分を限定する意識を解放していくことなのだ、と思う。私は運動が苦手。という人は、今は苦手でも、本当は得意だったことに気づき、得意な自分である意識にシフトするのだ。心はいつも幸福と愛に満ちている。裁くより赦すこと、違う思想も笑顔で迎えるようになれること、そんな笑顔でいられる人に私はなりたい。


人間の意見はさまざまにある。どんな人も自分の意見が正しいと信じて生きている。それは消極的な意味においてもである。例えば、職場の上司の指令が嫌なときでも、その程度の違いは忍耐したほうが、反抗してお互いに不愉快になるよりまだマシである、というように。

そう、どんな人間もたいていの社会関係においては、言葉を謹んで生きていくのが一般的ではないだろうか?

けれど、嫌いな上司の言うことを素直に聞いている人を見ると、腹を立てて「Aさんは上司に媚びている」と不満をもらす人もいる。それは常に闘うことが正しいと信じている価値観だから、そう感じるのだろう。

協調することのほうが正しい、あるいは譲って勝つ道もあるのだという生き方をしたい人は、強く主張する人に常に譲ってしまう。

人間はいつも闘っていたら、疲れてしまうから、どこかでここだけは譲れない壁を設けて後は人に譲るものだ。

さて言論の自由というのも様々な意味がある。けれど、言論の自由を求める中には批判の自由を求めていることが多い。

メディアが権力を持っている今、批判の自由は基本的に不公平であることが多い。つまり、言論界に影響を持つ人はいろんなことが表現できる。

例えば、野球選手やサッカー選手の調子が悪ければ、ボロクソ貶すスポーツ紙も多い。スポーツ選手は練習することが大切だから、書かれても我慢する。つまりスポーツができない人がスポーツ選手を評論する場合は、極めて残酷な批判を平気していたりする。

ピッチャーが上手なら、バッターは下手になる。どちらかに勝敗があるのだけれど、記者はどちらが勝っても痛みがないから、残酷になれるのだろう。

スポーツを体験した人の評論は、選手への思いやりや敬意があることが多いから、何でも体験に基づいて表現することが大切なんだと思う。

言葉は人を殺さないのか? イヤ、言葉は人も自殺や殺人に駆り立てていく。言葉によって傷つき、ポテンシャルが下がるし、死にたいときに勇気づけてくれるのも言葉だ。

だから言論への配慮が必要なはずなのでは? と思う。マスメディアという権力が言葉を好き放題に使ったとしたら、人のイメージを操れるわけで、絶大な影響を及ぼすことになってしまう。

そういう私も「I LOVE 過激派」では西城さんのイメージを損なっていることは事実だ。

『タイタニック』の中心人物の女性ローズにはキャルという富豪の婚約者がいた。けれど彼女は画家志望のジャックに惚れてしまう。そこではキャルが悪役でジャックが主役である。

もちろん『タイタニック』では悪役のキャルのファンだって当然いる。かれの人生だって波乱万丈で雄大な冒険を彼なり求めた人だからだ。

けれど、小説で読むのと、他人に表現されることとは大きな差がある。あの本では難しい用語を操る左翼をもう少し身近に感じてもらおうとして、ドラマを挿入したわけだ。

それは早見慶子の目を通じて表現しており、主役の雙田さんの美意識を引き立たせるため、西城さんが悪役としての役割を果たしている。

あの時代そう映った自分という未熟な感性をそのまま表現しようと思ったからであり、西城さんが悪い人だと語りたいのではなく、私が西城さんを尊重できない未熟な主体でしかなかったことを本にしたつもりだったのだけれど、なかなかそういう風に伝わらなかったようだ。

西城さんは実際は頭もよく、カッコよくて、合理的だけど、優しさがあったから自分の人生を投げ打って活動をした一人でもある。

みんなそれぞれがんばっているのに、ときに歪んでしまう人間関係。私と西城さんが結びつくことによって、反発しあう関係に発展してしまう人生の悲しさ。理想どおりに生きることがいかに難しいかということを正直に表現してみたかったのだ。

だからあの物語の登場人物はすべて私の成長にとって、とても大切な役割を果たした人しか出てきていない。もっと多くのメンバーがいたけれど、精神的な影響力があった人に役者になってもらったわけだ。

どんな人間にも雄大なドラマがあってそれは美しい。けれど、私という人間の体験や美意識がどこかで人を裁いて批判し、その人の態度に苦しんであがく。

人は他人によって苦しめられるのではなく、己が他人を怯えたり、軽蔑したりする自分の感情によって苦しむのだ。

自分の感情をコントロールできるようになった人は、他人が批判しても苦しまない。スポーツ選手は批判されても動じない自分をつくっていこうとする精神力があるから、次の日に挑戦することができたりする。

けれど若いときは感情が人にふりまわされて傷ついていく。そういう自分を乗り越えていく人間でありたいし、人に優しい人間でもありたい。

私の書いたことで意図せず、人を傷つけたこともいっぱいあったと思う。けれどいろんな人に支えられて私は今まで生きてこれたと思う。

言葉で表現することの難しさ。けれど、いろんな人間の個性や美しさをあまり損なわないで、表現できるように今後の文筆活動では努力をしていきたい。

他人とは心の歪みを矯正してくれる、大切な存在である。自分の内面を観察する、というこを通じて自分が成長できたとき、きっと文章も成長していくのだろう。