早見慶子の十条日記 » 2009» 6月

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 先日、太田龍さんの忍ぶ会があり、参加したところ鈴木邦男さん遭遇した。何と彼は太田龍さんを一水会にお呼びして、学習会を開いていたらしい。

 鈴木邦男さんと太田龍さんは思想家というところでは一致しているけれど、イメージが違う。

例えば鈴木邦男さんは一貫して「愛国」をテーマにさまざまな作品を執筆していきたのに対し、太田龍さんはマルクス主義、アイヌ問題、自然食の運動、動物愛護の問題、ユダヤ問題、天皇制の問題、さらに爬虫類人の問題まで、テーマを頻繁に変遷させている。

 その一方で、鈴木邦男さんは右翼、左翼、ミュージシャン、格闘家、政治家などさまざまな人たちと打ち解けて交流してきたけれど、太田龍さんは気が合わなければ、どんどん人間関係をたってきた。

 そんな意味で違った二人に接点があったのは不思議な気がした。

ちなみどちらも人間的には優しいというところでは共通していると思うけど。

 さて、その鈴木邦男さんが最近出版した「米国と愛国」を読んでみた。彼の本は最初の書き出しで、かなり読者を惹きつける魅力がある。

 戦中生まれの鈴木邦男さんの胎教は「鬼畜米英」だったらしい。女学生たちが槍でわらを突き刺し、「鬼畜米英」と突進していく。そんな話は私の母からも聞かされていたから本当のことだ。

 原爆や空襲を浴びせるほどのテクノロジーのある米軍にどれほど効果があるのか疑問な政策だ。けれど、女子学生に反米反英国意識を育てるのには役にたったはずだ。

 私の母はそうした世代のせいか天皇を批判することはできないという。美智子さまは憧れの女性だったらしい。そして鈴木邦男さんも愛国少年となっていったのだろうか。

 彼の本は豊かな教養に裏打ちされていて、言葉の使い方がとても正確だし、ひっかけ表現も巧みだから半分笑いながら読めるところがいい。

さまざまな人と交流してきた鈴木邦男さんは今回は特にいろんな主張や、いろんな生き方を尊重しながら書いているように思えた。

 戦争の歴史を語るのは難しい。人によって見方が違う。「天皇は自分を犠牲にしようと思った気高い精神の持ち主だ」と語る人もいる。その一方で私の知り合いの左翼は「天皇は自分の命を失わないためにアメリカと交渉していた。そのため、広島、長崎の原爆が落とされたのだ」と言っていた。

いずれにしても「天皇は神様」という立場から「天皇は人間だ」というポジションにかわり、教育現場も民主主義が語られ、ずいぶん変化した。

 さらにアメリカの評価となると、この本でも紹介してあったけれど、日本共産党は米軍を解放軍だと語っている。治安維持法によって弾圧された日本共産党にとっては戦争を終結し、生き地獄から解放されたに違いない。

 けれど、原爆が落とされた広島や長崎ではそんなことはありえないはずだ。放射能被害は世代を超えて白血病を誘発した。ケロイドや変形した顔に苦しむ人々。

 置かれた立場によって、違った印象を持つ。それは当たり前のことだ。

 けれど、戦後日本とアメリカは仲良くし、日本人にとってはアメリカンドリームと言われるほど、アメリカが好きなっていく。その一方で戦争好きのアメリカ政府への反感は強く、左翼のスローガン、右翼のスローガンには何度も強調されてきている。右翼の場合は反ソ、反共のため、親米を語る人もいるけれど、その根底では民族主義がちらついている。

こうした思想の流れを追いながら、3S政策について書いてあった。私はオウムとの関わりで初めて知ったこの言葉、鈴木邦男さんの若き時代から叫ばれていたらしい。彼はそんな政策はあったのかどうか疑問らしい。

 けれど、お金の流を追って行くと、この3S政策は明らかではないかと思う。

3Sとはセックス、スクリーン、スポーツのことだ。かつて俳優さんは地方巡業する貧しい不安定な存在だった。もちろんスポーツも大人になってからやるものではなかった。お相撲さんという太った人を除けば、力のある人は大工さんになったり、運転手になったりして、世間に役立つ仕事をするのが一般的だった。

 戦後、メディアの影響力が強まり、日本社会に生きていた士農工商という階級性、つまり精神、食料、技術、商売という順位は崩壊していった。

 私は小学校の時、先生から士農工商とは、士は命をかけてでも国を守る精神だから最も大切なこと、次に農は食料は肉体にとってなくてはならないものだから、大切な産業として次に重要であり、工は人に必要な道具や家を提供するから、次に来る。最後はただ物を流すだけで、お金を儲けるから下にくると教わっていた。

現代は何にもまして商売だ。株は流して儲けるし、お金こそが価値にまで錯覚するほど、絶対視されるようになってしまった。

テレビ、雑誌に出演するタレント、スポーツ選手は企業というスポンサーが出資してなりたっている。企業は正社員雇用から派遣、下請けへの責任転嫁をすることで、実質的な価値を生み出す人の人件費を抑え、高い人件費をタレント、スポーツ選手に保証してきたのだ。だから下請けの正社員の給与所得はほとんど変わっていないのに、高額タレント、スポーツ選手の上限はどんどんと上がっている。

  ところが労働運動する人は正社員の雇用には文句を言ってもスポーツ選手の賃金は憧れのように見守ってしまうのはどうしてなのか?

 メディアでカッコよく見せることで憧れ感を与えてきたのではなかったのか?

 例えば、自力で球団運営できるところでも、キャラクターグッズをつくるために、工場で働いたり、販売にたずさわる人の賃金は抑えられ、スポーツ選手はその顔でさえ、お金できるほどお金持ちになってしまったのだ。

 さらに廃れないセックス産業。

 お金の配分が違えば、その人気だって変わるはずだ。キューバでは農民の賃金を上げたら、農業が活発になったという。

ちなみ日本では農水省によれば2007年の農民の時給は179円だという。

ブランドをつくらない普通の農家は年金によって生活しているから、成り立っている状況だ。だから年金制度が破綻したときは食料危機にもなりえるということだ。

 稼げない職業は廃れ、儲かる仕事は発展する。ちなみに農業は買い手がなくならないのに、不思議な時給だ。

 そして3Sという高額な賃金にありつける産業は発達していくことになる。

お金の世界を支配すれば、人間の動きはコントロールできるということは、現実が証明している。人々の心が損得に揺さぶられ、損得で生きるようになってきたからだ。

お金の世界はシビアである。給食費を払わないお母さん、奨学金を返済しない若い人たち。彼らは給食制度や奨学金制度に反抗しているのではなく、損得勘定でやっているだけのことだ。

「あそこのお母さん給食費を払っていないんだって」

「あらそう。それで問題ないなら私も払わないわ。だって払っても褒められるわけでもないし」

そんな損得の連鎖でいろんなことが生じてくる。

仕事の世界も経営者はお金を持ってくることが仕事だ。薄利多売か少人数に高額で売りつけるのか。

お金の流れを分析するといろんな真実が見えてくる。そしたら、メディアに騙されない評論家が育ってくるに違いない。

これまで陰謀論を拒否してきた鈴木邦男さんも今回の本では寛容になっていた。

たぶん鈴木邦男さんが3S政策のような陰謀論が嫌いなのは、だからどうするんだ? 3S政策で、日本をダメにしようとしているなら、闘って変えればいいのではないのか? それは日本人がそれに飛びついて、堕落していることをアメリカの責任にしていいのか? という真っ直ぐな考え方が根底にあってのことなんだと思う。

 そう、あってもなくても、自分がどう向き合って生きるかなんだ、と。

 けれど、今回はイラクに対して「大量破壊兵器がある」と介入し、イラクの人々の生活をズタズタにしてしまった。そして大量破壊兵器のことにはふれないでフセインを国際裁判で死刑にした。

 だったら最初からフセインに対して国際裁判を要求し、正当に裁けばいいのに、戦争していったのだろうか。

 イラクに行ったことのある鈴木邦男さんは、陰謀説と否定されてきた説に真実がある可能性を見出し、許容しているように思えた。

 私はそこに感動した。だって闘う相手じゃない人を敵だと思って貶しあい、お互い疲れているのが現実だったと思うからだ。

  真実が見えてくれば、日本人とイラク人に役に立つ派遣はあっても、貧しい人、死傷者を作り出すためにお金や兵隊を出す愚鈍は避けられるのではないかと思う。

 


読売新聞で「1Q84」の著者、村上春樹さんのインタビュー記事が載っていた。

私はこのインタビューが気になっていたものの、何となく気が進まなかった。外からのオウム評価を読んで不快な体験をするなら、読まないほうがいいと思ったからだ。

けれど「カルト漂流記・オウム篇」を出版」してくれた茂山さんより、「読むといいよ。共通したことも言っているよ」とアドバイスされ、勇気を持って読んでみた。

  ここで勇気と書いたのは「オウム」という言葉は本を書いた私ですらトラウマになってしまった言葉だと気づいた。

関係する作家の記事を読むというのは、作品を出している人間としては当然のことなのだとはわかっている。書き手の常識らしい。けれど私は大半を活動家として生きてきた。活動しているときは批判の只中にいた。「新左翼ってバカなんだよ」と言われた。

それから交流したオウムの人たちとも組織が解体され、断絶した関係に入ってしまった。ブントの人たちとつき合い、戦旗派の荒さんからクレームがきて「あいつを追い出すように」と働きかけてきた。そこまで裏切り者だというレッテルを貼りたいのかと、ショックだった。

そしてロスジェネ世代からは私たちの世代は正社員で豊かに暮らしていると錯覚されて仲間に入れてもらえなかった。

 現実は一部の大企業の正社員を除けば、今の20代、30代より多くの人が仕事がなくて、あえいでいるのが現実だ。すでに正社員になれない人はすごく多いというのに。

 この背景には何か悪意さえ感じてしまう。そう、株の売買で儲けている一部の人たちが資産の大半を持っていっているというのに、メディアは真実を隠しているのだ。悪人を中産階級にして、ケンカさせれば、貧困層と中産階級が憎しみあって、権力者は自分たちをターゲットにさせずに堂々と金儲けができる。

案の定、ロスジェネの世代の人たちはホリエモンと対談さえしている。一夜で何百億も株で稼ぐ人のほうが、毎日コツコツ働く人より対談する相手として魅力的だったのだろうか。

私は結局どこの系からも追い出されてきた存在だ。いや、私だけではない。人間とはたいていそうなのだろう。職場にいても、その系に属しているというより、属したくないのに属していると思っている人が大半なのではないだろうか。

孤独。ラムサは一人でいるときこそ内なる神と出会える至高のときだと語った。

私はそう考えるように努力してきた。孤独。それは素晴らしい、と。

 意味のない喧騒に誘いこむメディアとは距離を取り、支配階級の宣伝戦略はシャットアウトするようにした。テレビのように強制的にインプットしてくるイメージをシャットアウトするのは快適だった。

 読む本は聖書、哲学、宗教、思想、量子力学、生物学、植物学、漢方生薬、天文学、歴史、ファンタジー、童話を中心にして、政治色は知人関係の書物だけに限定してきた。

 時代に振りまわされない何と平和な世界なのだろう。

さて村上春樹さんのインタビューについて。

 

最初のところで、「オウム裁判が出発点」とあり、オッと思った。読んでいくと「現代社会における『倫理』とは何か」という問いを投げかけていた。

私も活動をしていたとき、バブルによって豊かになった若者が、踊らされた富で豊かになるより、人間の本質について探求しようと宗教に向かっていく現象を驚きの目で見ていた。

時代を捉えるセンスに卓抜した村上春樹さんはいち早くこの点に他人を観察することによって冷静に組み立てて本を書いた。その本はベストセラーになり、話題の人である村上春樹さん。海外でも話題になった稀有な日本人作家だ。あまりにも私とは対照的な人生だ。

 彼は「作家の役割とは、原理主義やある種の神話性に対抗する物語を立ち上げていくことだと考えている」と話していた。たぶん村上春樹さんの抱く宗教のイメージが原理主義、すなわち教典を忠実に従おうとする集団、もしくは神話のような世界観を築いて現代社会とは違ったストーリーによって生きているということなのだろう。そういう宗教に生きる人と違った、表現で物語を書いていきたい、ということだろう。

 彼の立場は自分がオウムの系ではなく、明らかに観察者だ。私は自分の活動家時代のトラウマと重なったせいもあり、自分の体験としてのオウムの系に含まれている。だから裁判に関わったのは一回だけ。たぶんこれ以上公安警察に追いかけられるのはゴメンだと思った。

 職場に警察が来たらクビになるかもしれない。すでに仕事を転々としてきた私には、生活費だってギリギリだ。だからじっとしていようと思った。堂々と裁判に行けるマスコミの人たちとは立場が違う。

  もちろん私も書くにあたって、裁判記録、上祐さんの本、林郁夫さんの本、早川さんの本、サリン被害者の本、それにまつわる本は読んだ。けれど江川昭子さんの本は読めなかった。それはオウムのことを「風呂に入ってない、栄養が足りない、ゴキブリやネズミがいて不衛生だ」とテレビで批判していたことが記憶にあり、きっとそのトーンの話を読むと悲しくなるだろうと思って、本が開けなかったのだ。

もちろん江川昭子さん自身がオウムに命を狙われたのだから、むしろ彼女はとても勇敢だと思う。たいていの人が恐怖を感じるところを逃げないで闘ってきたのだから。

けれど、当時の知識人たちがこぞってバッシングをしているときに、私はバッシングを受ける側と同じ苦しみに悩まされていた。入信したわけではないのに、自分が貶されている側に属しているという意識が頭をもたげる。

 つまり活動家時代お風呂に入らず、同じ服ばかりきて、軽蔑されていた時代の自分が蘇り、また嫌がらせを受けているような錯覚に陥ってしまうからなのだ。

 悲しいかな自分を冷静に観察できるようにならない限り、人間は隠れたトラウマにいつも攻撃されてしまうのだ。

 オウム関係では自分のことを正直にさらけ出したのが林郁夫さんの本だ。彼は真摯に自分を見つめ、向き合っている。そして思い出したくもない事件を見つめた。素晴らしいと思う。

早川さんは自分の想いやオウムについていろいろ整理していたけれど、表現していないこともいくつか見受けられた。いろいろあるのだろう。その本の中で家族への思いが語られていたけれど、そこに優しさが感じられ、世間の風評とは違った彼を見ることができた。

 上祐さんの書いた本はヨガの教本のような本だったので、自分と向き合った本ではなかった。いやむしろ正大師まで登りつめた自分への自信なのか、自分を頂点とした関係性を再構築しようとしているかのようにさえみえる。たぶん彼はあの時代の出来事には触れたくないのだろう。

 村上春樹さんはオウムのサリン事件で、オウムが解体されてから、元オウムの人々と交流している。ところがその前に交流のあった島田裕巳さんはバッシングを受け、マスメディアに登場するかわりに職場を去っていった。中沢新一さんもメチャクチャバッシングされ、メディアから去ってしまった。

 もちろん島田さんも中沢さんも宗教、あるいはチベット仏教という接点だけで、サリン事件なんて応援したこともないはずだ。

 サリン事件の前に交流することと、後になって交流することはこれほどまでにマスメディアの評価が違ってしまうのだ。

 村上春樹さんはいつもバッシングのあるところとは、ほどよい距離を保ってきた。

 村上春樹さんはノルウェーの森でも学生運動が出てくるけれど、傍観者になって眺めている存在だ。だからそこには衰退していく運動に関わり、差別されていく者の苦悩はなく、爽やか読み物になっている。それは決して悪いことではない。

 けれど、私にとっては大きな距離を感じた。活動するということは現象的には社会に理想を求め、その理想を実現するように運動することである。けれど、少数派であることは「変な人」「危険な人」「偏っている」という人々の差別する視線にさらされる。さらに何度もガサに入られ、尾行までされるというピリピリした関係に苦しむことでもある。

 彼のの書いた「ノルウェーの森」はその生き様に入り込むことなく、社会現象の一環として観察していると思った。自分という主体をアイマイにしたまま、結局のところ多数派の意見のソバにいるように感じた。

 多数派にいるというのは、自分と周囲の異質性に悶々とする必要がないということだ。その悶々とした自己の苦しさをどうやって突破していくのか? 発言権がない人が周囲に食ってかかるとさらに悪い結果にしかならない。発言を通せるのは力を持った人の特権だ。

 だから発言権を奪われた人間は、自分が周囲を観察する目を変えていくことが必要になってくる。

 たとえば私がAを生活主義者と語り、Aは私を理想主義者と語ったとする。マルクスは相対的な関係を持ち出し、「自分が自分をどう思うかではなく、人が自分をどう思うかが自分なんだ」と語り、以前はそう思ってきた。

 けれど、例えば地球の反対側にいる人は、どっちが上にいるのだろうか? 全く違う場所にいるわけで、足の下を下と呼ぶなら、お互いに相手が下にいることになってしまう。

「オマエが下にいるのだ」

「いや、そちらこそ下にいるのだ」

基準の取り方。それを観察する人によって物事を判断する自分の目に色がついてしまう。

その価値判断の違いで、相手はいかようにでも見えるわけであり、自分が相手に下した価値判断こそ自分を知るために大切なことなんだとわかってきた。

 つまりゆったりと働いている人のことを「トロい」と語る人がいれば、「私という人間はスピーディに仕事をできない人間を軽蔑し、否定している人間である」という己の価値判断の基準のゆがみが人を否定的に判断しているにすぎないということである。

だから変わらなければいけないのは相手の遅さではなく、「自分のスピーディでない人を軽蔑し、批判する視点」なのである。もちろん現代社会は互いを裁いて本質がわからなくなってしまっているから、裁くことが正しいと錯覚させてしまった。

 赦すことによってしか人間は自由になれない。いつも裁く基準を持っている人は人や自分をその基準によって縛りつけている。より高く厳しい基準を持った人は常に人を裁いていなくてはならない。

 無数に法律をつくった現代。裁かれる口実は無数にある。

赦すとはどういうことか?

人を裁く基準は自分がつくり出した幻想であることに気づくことである。そのことに気づけば他人も自分も素晴らしい存在であることがわかってくる。

 だから大切なのは自分を観察することである。驚くほどさまざまな理由で自分や他人を軽蔑していることに気づく。そしたらその判断基準をなくしていけばいい。

 つまり、自分の結婚相手が「高学歴」「高身長」「高収入」「イケメン」「優しい」などの基準をもっている人は何か欠けているたびに相手を否定し続けなければいけなくなる。それよりそうした基準で判断している自分の価値判断と向き合うことのほうが大切だということだ。

まず自分を観察していくことから始まる。

 だから、村上春樹さんは、自分という存在がなぜ、そういう危険な存在とは一定の距離のとり方をしてきたのか、それなのにこだわるのはなぜか、ということに言及してくれたら、彼の小説はもっと面白いに違いないと思った。そう、オウムは事件の前からずっとテレビに出て、有名だったわけで、そのときのオウムを彼はどう思ってきたのか?

 ちょっと聞いてみたい気がする。

 しかし、彼は作家という仕事を通じて私とは違った苦労をしてきたに違いない。

 彼の本が売れたり、賞をとったりするのは、周囲が認めた結果であり、何も彼がえげつないことをしたわけでもない。けれど、彼がネットでバッシングを受けたり、反発されたりしたとき、どんな気持ちだったのだろうか?

 たいていお金持ちになったり、賞をとったりすると妬みのターゲットになりやすい。彼の語るようにかつてはどこかで人が勝手に言っていることが今はネットに書き込まれ、悪口ほどみんなが飛びついてしまう社会だ。

 私はこうした現象が起こるのは自分の人生に希望や自信を失ったからだと思う。自分のやりことの実現に向けて努力していれば、そんなことを書き込む意味なんて見出せないはずだ。

 けれど、今の自分よりも他人の人生に干渉し、他人を評論することで、自分の人生だと錯覚してしまっているように思う。あるいは他人の足をひっぱることで自分という不幸な状況に陥らせて、喜びを見出そうとする歪んだ視線。ますます自分の無限の力から遠ざかり、自分という存在がますます小さくし、否定していくという悪循環を繰り返しているように思うのだ。

 人は最初の挨拶のときに自分の肩書きを語る。仕事だとか、通っている学校だとか。そのときに自慢できる肩書きを持っている人なんてごく少数に違いない。

 いつの間にか肩書きをなくし、世間に自分を表現しきれなくなったとき、自分を否定的に考えるようになりがちだ。けれど本当は何者にもなれる可能性を持った自分であり、無数の未来に挑戦できる存在にもなりうるのだ。

「あなたは何者ですか?」

「私は何者でもありません」

という会話がスピリチュアルな世界ではよく出てくる。人間はレッテルによって限定されない無限の存在だということを表現しているのだ。

 人の素晴らしさを表現することもメディアであれば、軽蔑する記事を書きたて、人と人の絆を断ち切ろうとしているのもメディアによる。

 こういう時代だから、自分だけの体験、自分だけの人生を他人の言動に左右されないで、大切にしてほしいと思う。

 村上春樹さんは「大切なのは売れる数ではなく、届き方だ」と強調した。さすがに大作家らしい言葉だ。

私は「大切なのは売れる数でなく、どう自分と向き合うのかだ」と語ろう。届き方というのは人の体験によって全く違って感じとられてしまうから、書き手の思うようにいかないことが多くある。

 けれど、その一冊の本を通じて、書く人が自分の人生をきちんと整理できたと自分で思えたら、それで素晴らしいのだと思う。

 


2009/6/13 土曜日

法政大学の闘いの行方

Author: 早見 慶子

いつしか私の知人の恩田君は起訴されており、文化連盟の斎藤君も逮捕されてしまったらしい。この起訴をめぐっては、2月に当局の看板を破壊したということを取り上げて、罪が重くなったらしい。

逮捕され、起訴されるということは、若い人にとってとても精神的にきついことである。でも、そんな中で若者は魂を鍛えて成長していくのだと思う。

  さて、 何を大切にした闘いをしたいのかは人それぞれあると思う。  私はこの問題は逮捕されている一人一人の学生が自分の信念を貫けばいいのだと思う。館黙秘転向が正しいと思うなら、貫け。その結果裁判費用もかかるけれど、自分で払うくらいの覚悟で。払えないなら後で返すくらいの覚悟で。

 もし、この程度のことなら謝って出たほうがいいと思うなら、謝れ。そして釈放されて自由に運動すればいいではないか。

  大切なことは一つ。自分の人生の選択は自分で決めるものだ。他人の言動なんか左右されず、自分で歩むのだ。けれど。その結果おこってくるリスクも勇敢に受け止めて、前向きに生きよう。そしたら、いつかあのときがんばってよかったと思うときが来るだろう。


2009/6/12 金曜日

法政大学の闘いの行方

Author: 早見 慶子

 今回の記事において、統一OB会に記述が正確でないという抗議が来ました。そのため、確認をとり、誤認があったため、お詫びと修正をいたします。