早見慶子の十条日記 » 2009» 4月

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2009/4/21 火曜日

壊れたシャープペンシル

Author: 早見 慶子

私の職場ではシャープペンシルを使っている。なんてどこでもありそうなことを書いたのは、ネタに困っただとか、早見慶子は特別なシャープペンシルを使っているから自慢したいだとかいう理由ではない。

職場で使っているシャープペンは二つで百円という、これまたありきたりの安い、経費削減をしたようなシャープペンである。

私の子ども時代は鉛筆という削る必要のある周囲が木に囲まれた風流といえば確かに風流な味わいがあるけれど、芯が丸くなってきて書きにくくなりやすいものを使っていたから、単純にシャープペンが職場で使える時代にいたく感動したからでもない。

このシャープペンがときどき壊れるのである。もちろんこうしたシャープペンは安いし、壊れるのは寿命だからと、新しいシャープペンに買い換えることを喜んでいる、そんなささやかな楽しみをもたらしてくれるシャープペン物語を書きたかったわけでもない。

このシャープペンをときどき壊したスタッフの人が、私に「シャープペン、壊れちゃった」と言ってくるのである。その背後にある意図は、こうだ。「早見さん、シャープペンを直してください」である。

女性ばかりの職場とあって今までも、電話機の時間がズレているだとか、コピー機が何回やってもエラーになるだとかいろいろ言われてきたので、そのつど修理をしてきたことは数え切れない。

電話機やコピー機は簡単に買い換える商品ではないから、修理をするのは、どんな企業でも当然といえる。けれど、50円のシャープペンを1年以上使っているのだから買い換えても経営者が文句を言うはずもない。

けれど、このシャープペンを直して使えるようにするのは、いつからか大変な喜びになってしまったのだ。

シャープペンを分解してみると、壊れている理由はすべて一致している。途中で芯が折れて、斜めになったり、横になったりして芯の通路を妨害してしまっている。それを取り除かないで、何度もノックし続けるから折れた芯がいくつも先端のところで重なりあい、絶対に芯が進んでいくことができない構造になってしまっているからだ。

コピーのエラーが続くのもエラーの記憶を解除させないまま、何度もスタートボタンばかり押しているからエラーが消えず、進まないだけの話である。

悲しいかな、これは女性のサガなのか。原因を確かめず、同じ作業を繰り返すのがたいていの人間だ。

そして先日もシャープペンの壊れたものを持ってこられて、芯を出そうとした。ところが先端で芯のカスが短くなって完全に通路をふさいでいて、取り出せる状態ではないほどだった。

どうしてだろう。こうなると諦めずに挑戦したくなってしまうのは、私の性質によるものなのかわからない。私は芯のカスを出そうと芯を取り出す穴に針を差し込んだのだ。硬い針なら押し出せるだろうと思ったのがあまかった。

針はその穴に収まったまま、微動だにしなくなってしまった。ひっぱっても針は滑る。だからどうしても出てこない。針を歯で噛んでひっぱってみた。それでもダメである。

ああ、何ていうことだ。私はシャープペンシルを直すどころか、罪のない針まで、葬送してしまうのだろうか? ああ、直そうなんて意地になったのがいけなかったのか。

いくら後悔してもすでに針はシャープペンシルから離れない。針はシャープペンの芯の代用にはならない。それに尖っているから、危険でもある。

私はそこで念じることにした。「針よ、シャープペンから出てきておくれ。そこは針さんのいるところではないのよ。あなたが、針として実力を発揮するためには、そんなところにいないで、自由になったほうがいいのよ。布の間を走り回るほうが針さんにあっているわよ」そう思いながら、念じた。

するとどうだろう。針はスルっと抜けたのだ。それは私が念じたせいのか、それとも何度もひっぱっていたとき、もう少しで抜ける手前だったのかはわからない。

私がどれほど苦闘したのかというと、職場で直せなかった針とシャープペンを家まで持ち帰ってまで、何度もひっぱっていたほどなのだから。

抜けた針に変わってシャーペンの芯を入れてみた。そしたらちゃんと押し出されてきたではないか。私はこれまで修理した中でも一番、感動したことは言うまでもない。

私はそのシャープペンを何事もなかったかのようにそのままスタッフに渡した。

「わ~、すごい。直っている」と言ってシャープペンを使おうとし、シャープペンはそのスタッフの意志に従って、紙の上そスピーディに駆け抜けていった。

安いシャープペン。それはときにすごいドラマをつくりだし、誰にも負けない存在をアピールするものなんだと、思った。そう、シャーペン。それはすでに職場のスタッフの一人として働いている立派な仲間なのだ。イチローがバットを大切にするように、職場で、私もシャープペンを大切にしよう。そう、道具があっての仕事なんだからね。


 3月28日の土曜日、劇団再生の「詞編・レプリカ少女譚」を見に行った。まずトークでは高木尋士さんと鈴木邦男さんが本のことについて対談していた。一年で何冊本を読むのか競争していたらしい。どちらもすごい読書家だ。

 この本とはすべて言葉で構成されている。その言葉を並べるだけで、無数の文章が生まれていくのだから不思議だ。本は無数に出版されるのに、その一つ一つが違った世界を私たちに与えてくれている。

 言葉。この不思議な記号について改めて考えさせられた。

 再生の演じた「詞編・レプリカ少女譚」は高木尋士さんのオリジナルだ。精神病棟というセッティングがはかなくて無垢で、真っ白なイメージにすんなりと結びついていく。目の見えない少女。ウソをつく少女。そして言葉をなくしていく少女。言葉を失っていく少女は少女だけに見える鎖につながれた存在に言葉を奪われている。

 絶対に失いたくない名前とは何か。それは個人をさす固有名詞だ。認知症にかかった人が子どもの名前を言えなくなったとき。それは子どもにとってすごく悲しいことである。だから名前だけは大切にしたいという願い。

 目の見えない少女は難しい視神経をつなぐ手術をするのだけれど。見えるとは素晴らしいことなのか、それとも悲しいことなのか?

 当たり前に見る、話すという世界が、そのことをなくすだけで芸術になってしまうという、素晴らしい発想だと思った。

 失うことは本当は悲しいはずだけれど、現代のようにカラフルな商品が目に飛び込み、物に溢れて生活している私たち。

 そして言葉を選ばないがゆえに傷つけあってしまう人間関係。そんな日々を考えるなら、いっそのこと彼女たちのようにいろんなことを失ってしまったほうが、純白に生きられるかもしれない。そう、真っ白な雪は何て美しく、そしてすぐに溶けてなくなってしまうほどはかない・・・

 極めて危ない小道具がとても美しく感じてしまうのは、きっと私も少女たちの仲間に違いない。

こういう世界を表現できる劇団再生の人たちは、見えないところでがんばって練習したんだろうと思う。打ち上げはさぞかし盛り上がったこだろう。だって二日で三回の公演をこなしたのだから。