早見慶子の十条日記 » 2008» 8月

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劇団再生 8月9日に阿佐ヶ谷ロフトで劇団再生による「symphony#9 罪と罰、マジで大迷惑!」が上演された。
高木尋士さんの作品は重たい古典的なテーマを現代風にアレンジし、若者にとっつきやすい作品に仕上がっている。いつの時代も読まれるドストエフスキーの「罪と罰」。
この本は社会の矛盾に苦悩した若者が、貧乏人にお金を貸して利子で生活する老婆に怒りを持って殺人を犯してしまう。その事件の直後に来た妹に対して、ラスコーリニコフはさらに殺害をしてしまったのだ。言い訳のできない第二の殺人。

その犯罪を背負った重圧をソーニャとの出会いを通して、越えていこうする若者の物語である。

このストーリーに戦争という問題、主人公と作家という絶対的な関係に言及しているところが高木さんの奥深いところである。

高木さんは小学校のときにすでに「罪と罰」を読みこなし、その後何度もこの作品を読んでいる。

その深さのことを思うと、私は素人にすぎないので、彼の作品の深さに到達することは難しい。

その分だけ、何度見てもあきない何かを表現していると言えるだろう。

子どものときに遊んだ間違い探し。大人向けになるとだんだん難しくなり、発見しにくい。でも、探していくと「こんなところにあったんだ」という感動がある。

高木さんの劇もいつもそんな魅力に溢れているから、前衛の苦手だった私にインパクトを与える構成となっている。

「私」という存在はいつもあやつり人形のように社会に強制されている自由がないように感じてしまう、そんな体験は誰にもあるはずだ。

親のいうことを聞く、先生の言うことを聞く。そして上司の言うことを聞く。さらに政治家が決めた法律に従う。そう誰かの筋書きの登場人物の一人みたいなものだ。

そんな個人が作家に反逆しようとする不思議な展開。それは現代に生きる私たちも筋書きどおりの生き方じゃない何かがあることを暗示してくれているような気がする。

音楽もクラシックからロックまで使いこなし、部分、部分をつなぎ合わせていながら、ストーリーとしてちゃんと流れているところがミステリアスな魅力を奏でている。

「罪と罰」。私にとって見沢知廉の人生が重なってしまうのはどういうわけだろう。

正義に燃える怒り。正しいことのためには人を殺す権利だってある、という誘惑。その後に襲ってくるわけのわからないぼんやりとした空虚感。そのことを封印しようとしたり、正しかったんだ思いたい自分。けれど殺人犯という最悪な存在になってしまったという絶望。

そんな苦悩の中で、作家という道を選んだのが見沢知廉氏だった。

このテーマをカリスマ的存在の高木さんがみごとに表現しきった作品だと思った。

その素晴らしいできのせいか、この阿佐ヶ谷ロフトは若者で満杯だった。私は席を探すのがとても大変なくらいの賑やかさは、ファンが着実に増えていることの証だろう。

12月の上演が楽しみです。


 ホームページのイラストはルミさんが描いてくれた。彼女はいろんなことに好奇心旺盛なので、情報をいっぱいもっている楽しい人だと思ってきた。以前ラムサのチャネラーであるJ・Z・ナイトのJ・Z・ROSEのお店のホームページってステキだね、という話になったことがあった。

 このホームページコンテストで3位に入ったそうで、いろんなところに工夫がある。

 私たちはお金をかけられないので、どうしたら可愛らしくできるのかなって思っていたら、ルミくんがイラストに挑戦してくれたのである。

 さすが芸大出身だけであって、簡単に描く。喜んで載せたのだけれど、もともとはハートが描かれていた。このハートをケンタロー君がどうホームページに載せようか悩んで、保留になったまま数ヶ月が過ぎてしまっていた。

 アレ、手相を見てるみたいね。ハートがのったほうがいいね、とルミくんと私は話をし、ケンタロー君に催促をしたのだった。

 手相をみるかハートを感じるか?  

 手相に私は詳しくはない。けれど手をみるのは好きである。そう、それは何を隠そう金星人と会ったジョージ・アダムスキーが手を見ているだけで、霊的に成長てきると書いてあったことが引き金であった。

 この手というのはどれほど人間に貢献してきたことか! 今日一日、この手のおかげで私はいろんなことができました。ありがとう。と感謝するだけでもいい。

 また、この手には生命のいろんな不思議がいっぱいこめられているという。

確かに「手当て」といったとき、手からヒーリングエネルギーを発している。手の中に集る血液の働き、細胞の活力、気の流れを意識して手をみる。

 確かに今まで意識されなかったいろんなことが理解できるような気がする。

 だから手を見ているだけでも意味があった。

 それでも手を見て何を感じとるのか? 

 アダムスキーの語る「手を見る」のはプラスのイメージ、つまり、愛を感じとる、そして愛情をもって見つめることの中で生じる霊的なコミュニケーションを前提としているのだ。

 だからイライラした感情が克服できない限り、手を見てもこの手であいつを殴ってやろう、なんて思ってしまうかもしれない。

 そう、だからハートはつきものなのだ。

 そんなんでケンタロー君がハートをホームページにマッチするように描いてくれた。

 思ったより可愛くできている。とても嬉しかった。

 となるとこのホームページのイラストにふさわしくなるように奮闘するのはこれからの私のテーマだろう。

 今、新しい作品を執筆中だ。期待に沿うにがんばります。

 あらためて、ホームページに協力してくれたルミさん、そして作成してくれたケンタロー君、ありがとうございました。


2008/8/1 金曜日

肩の痛み

Author: 早見 慶子

体に汗がこびりついている。夜中のエアコンのお休みモードが切れたらしい。

 少し風を入れようと、ドアを開ける。イタ~イ。

 左腕がうまく動かない。あ~あ、今日もダメ。まだ動かすと痛い。

 これってもしかして五十肩っていうのかしら。

 そういえば父もそんなことを言ってたときがあったっけ。手を後ろで上下に組む。そうすると片方が全然つかない。「家庭の医学」を持ち出して、これは五十肩なんだって説明していた。

 私は違うと思っていたけれど、片腕だけ毎日ってあやしい。腕を後ろで組む。とりあえず、何とか大丈夫そうみたい。

 左腕もちゃんと上に伸ばせる。でもその腕をちょっとそらすととっても痛くて、その動作をやめた後もしばらく痛みが残っている。

 そういえば腕や足の毛が薄くなったって、いつからか感じるようになった。もともと毛は細い。でも、手足の毛が長かったので、学校では毛深いほうだった。女なのに毛深いのって最悪だなんて将来を憂いた思春期の頃。

 よくオキシドールを薄めてこすっていたっけ。私の子どもの頃はオキシドールが危険なんて知らなくて、ちょっとした消毒に使っていた。オロナインやメンソレータムのように家庭に常備する、そんな商品だった。

 いくらこすってもそんなに変わらないって諦めたんだよね。つまり面倒だったってこと。

 何でかわからないけれど、毛を剃るって自然に抵抗しているみたいで嫌だった。肌に悪いとか、罪悪感が混在してしまう。それに「オッ、剃ったな」なんて言われたらそれこそ恥ずかしいじゃない。乙女心がズタズタっていうか。

 今思えばそんな悩みも懐かしい想い出だ。体毛が薄くなったのはいいけれど、何だか寂しい。ああ、年齢? って感じだ。

 イヤ、これくらいは序の口なのかもしれない。この年齢による変化といかに楽しくつきあうのか? そう、どんな自分になるのか悲哀をいれずに観察するようにしよう。そしたら、きっと面白いに違いない。