早見慶子の十条日記 » 2008» 6月

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2008/6/30 月曜日

ブラックな日々

Author: 早見 慶子

身体の変容

 おなかがシクシクする。いつも左肩が痛い。腕は上がるけれど神経の状態がおかしいのだろうか?以前から胸が痛むことがあったり、背中が痛むこともあった。だからこれは単純に五十肩ではない気がする。心臓から来ているに違いない。

 それでも致命的な痛みじゃないから、どうでもいい。

 よくみるとおなかが出ている。イヤこれは前からだ。若いときと体重は変わらないけど、こんなではなかったはずだ。ウエストを測る。ずっと58だと思っていたけれど、64あった。

 通販でジーンズを買うと58で丁度いい。オバサン用のスラックスが64からだってのも納得がいくけれど、私にはゆるすぎてダメだ。

 だから58くらいだと信じていた。そうか、通販ってみんな若いときのウエストのイメージを持っているから、58の表示で64の人がピッタリするというしくみなんだろう。それにお客は「あら、私まだ58がはけるわ」って喜ぶ。そんな消費者の心理をついているのだろうか?

 でも体重がかわらないということはどういうことなのだろう?ハッキリしている。筋肉がおちて、脂肪がついたということだ。

 そうだ、もう1回スポーツジムに通って行こう。ってなわけで、私はエアロビやジョギングをやり始めた。

 どこがブラックな日々?スポーツジムに行く余裕あるじゃんかって?

 そう、普通なウキウキして、1ヶ月したら「ホッホッホ。どう?私のウエスト。58とは言わなくても60よ。このオバさんボディが若者ボディを取り返したのよ。そう、デビィ・ムーアの40代なのにすごいボディってのを越えそうよ。だって年齢はデビィ・ムーアより上なんだか、ギネスものだわ。週刊誌で取り上げられたら、どうしよう」なんて妄想を拡大できる楽しいことなのだ。

 でも何かうっそうとしたものがある。このウエスト64のままだったらどうしよう?なんて不安になっているわけでもない。ハッキリと何がイヤだというわけでもないのに、どこかでイライラしている自分がいる。

 スムーズにいかない退職

 私は薬剤師で終わる人生にいたくなかった。書きたいことがいっぱいある。したいこともいっぱいある。そのときのために一生懸命働いてきた。

 そして「辞める」と社長に話し、「わかった」と言ってから2年が経過した。それはたぶん社長が辞めさせたくなかったのと、パートの人たちから「辞めないで。八名さんが薬局長だからいるのよ」と言われてきたことの理由による。ありがたいことだ。でもこの依存関係ってどこかでゆっくりと絶って自然に移行できるように2年かけてきたつもりだった。

 ところがトラブルが生じた。わが薬局のパートの人は誰も責任者なんてやりたくないという。だって責任者ってあらゆることを理解していなきゃならないし、コンピュータトラブルが発生したら、祝日に出勤することもある。もちろん管理職だから、無料の奉仕だ。

 お金になるから、出てきてってパートに頼むのは辛い。主婦も努める女性にとって、急にスケジュールが入るのは誰だってイヤだ。そんなのは仕事を一緒にしていれば、顔の表情ひとつで、どんなこと感じているのかぐらいわかる。だから、パートとしてお手伝いする範囲だけにしたいのだ。

 だから責任者は他の店舗で働く男性で合意を得た。けれど、「その男性が10時からでないとキツいからイヤだ、というので、10時からになった」と社長から聞かされた。私は、ふ~んと思った。

 ところがそのことをみんなに話したら「えっ、10時?Aさんが出勤のとき2人朝遅いから、大丈夫?心配だわ」という声が出た。

 わが薬局、小児科なんで朝早朝はにぎわっている。9:00~のはずなのに、8:50頃にすでに薬局に患者さんが来る。

 早く見てもらって、保育園に子どもを連れていくお母さんがいっぱいいるのだ。

 それにAさんも子どもが保育園にいるので、送ってから来るので9時半くらいになってしまう。

 Aさんは「私どうしよう。でもがんばってもこの時間にしか来れないの。でも新しい薬局長は今のところに9時に行ってて、こっちの薬局より遠かったはずじゃない。何で10時なのかしら?」と語った。

 今のところが何時に終わるかは患者さんと医師の気持ちによって決まる。小児科ってそんなところだ。だから薬局の終了時間は6時半で申請しているけれど、8時~10時の間で終了することがほとんどだ。だからイヤなのはわかる。

 でも4日と半日の仕事だ。それに彼が来ることによって半日の日を抜けなければならない人が出てくる。だからみんな「朝は9時に来て、半日の日を休めば、週休3日だから普通のサラリーマンより楽になるわ。それにしても私の主人だって、そのくらいの距離を毎日出勤しているのに、男なのに何でできないのかしら」

 という意見がいっぱい出てきた。パートの人たちはトラブルがあったときも不安で、その男性のことも知っているからなおのこと不安だった。

 特にコンピュータ関係はいつも私が治していた。薬局は特殊なソフトを使っており、データを永遠に溜め込んでいく。だからフリーズしやすい。早く治さないと、患者のお怒りモードに入る。なぜかパソコンの得意でない私でも、いつも治ってくれた。

 修復の仕方どおりやっても戻らないとき、私がやるとうまくいく。事務の人は「何で同じ操作なのに。人を選ぶのかしら」と言う。そう、この職場で私が一番古い。だから機械に心があるとしたら、私に一番なついている。だって一番長くつきあってきたのだから。

 私はパソコンのハードにも意識あると思い、心の中で語りかけながら、さわってきた。その違いなのかもしれない。そう、植物が育てる人の心に感応するように。

 みんな新しい薬局長はそういうことができないだろう、と一緒に仕事して感じている。そして10時出勤。

「それ、絶対で新しい薬局長ってやりたくないのよ。だから10時だったら行ってあげてもいいけど、9時ならイヤだって社長にダダこねたに違いないわ。朝のトラブルも引き受けようなんて気持ちなくて、遅くまでの仕事イヤだって思っているのミエミエじゃない」とも言っていた。

 私は社長に言った。「10時だと他にも遅いパートがいるから厳しいので、他にもう1日休みを与えることで納得してもらえないかしら」

 「新体制は私と新しい薬局長で決めるから、ダメだ」と言った。確かに去っていく者から言われるのは面白くないかもしれない。

その上、7月20日までの約束だったのに「新しい薬局長のいる職場の人が休むから、もう1週間来てよ」と言われた。

 それ以外でもわが薬局の人たちが夏休みとあってあちこち家族旅行のため、来れないって×印がいっぱい入っている。でもこれは私の部下だった人たちの休みだから、安心して旅行に行ってもらうように出勤しようと思っていた。でも他の店舗は違う。

 その休む人は社長がジャズシンンガーの美人な薬剤師をライブのときに話をして、連れてきた人で個人的にもお気に入りだ。もともと個人的にも飲みいったことのある人だから、休ませてあげたかったのだろう。

 だったら「申し訳ないけれど、延ばしてもらうことはできるかな」くらいのセリフがあってもいい。どうしても来させなければ、あの美人の薬剤師のために、とでも思ったのだろう。命令口調だった。

 さすがに「何で他の店舗の職員が休むのに、私が仕事を延ばすべきなのか。ここまで、延ばしてきたじゃないですか。そういう来て当然かのような言い方されたら納得いきません」と口ごたえした。

 最後だから、美しく退きたかった。「社長、いろいろありがとう」という関係で。そしてパートの人にも「これで安心ね」っていう状態にしたかった。

 途中から10時になるんだったら、新しい薬局長の問題って思えばいい。でも今はまだ薬局長で、Aさんは自分が子どもがいるがゆえに9時に来れないことを責めている。パートが自分を責めているのに、10時に来る契約を社長としたのだから当然という態度を責任者がとったら、部下はどんな気持ちになるだろう。

 マニュアルが責任者をつくるのではないのに、社長はマニュアルだと思っている。責任者ってパートの人が楽しく働けるように努力するべきではないのか。

 私は今までの調和が崩れようとしているのを見て、責任を感じてしまう。何という後味の悪い退任ではないか。

母のこと

 その一方で亡き母の後処理が現実的には待っている。東京と豊橋はちょっと訪ねる距離ではない。だから何度も往復しなくてはならない。母がいたときは、私が持ってくるのに必要なものを、きちんと電話で知らせてくれた。

 今はしてくれる人がいないので、私が家に帰って書類を確認し、いろいろ手続きすることになるだろう。だから確認のために帰り、必要なものを取りに東京へ戻り、また豊橋へ行く。

 さらに相続の仕方も話し合わなければならない。家の管理をどうするのか?家のものを捨てるにしても、家族で何を必要とし、何が要らないかを話し合わなくてはならない。

 それに母の水墨画の絵をもらう予定だった80歳のおばあちゃん。兄は渡すことを嫌がっていたので、私に名刺をくれた。家も知らないけれど、どこかで渡しに行かなくては。

 埼玉県に住んでいる母のお友だちがいる。私の薬の本を買ってくれた人だ。手紙でやりとりし、お年寄りの一人暮らしだということがわかった。だから落ち着いた会いましょう、ってことになった。忙しい。

 執筆の仕事

 さらに着手し始めた次作。試験のため、いったん中断してから、母の死などいろんなことがあり、止まってしまった。書きたいことが山ほどあるというのに、他のことが頭を悩ませて進展していない。

 そういえばアロマとハーブインストラクターという別の資格の通信教育も20万ほどお金を出していたのに、手さえつけていない。もったいないから、この資格をとるためにも、勉強しなくては、と思う。

 そう、どこかで菜園を開き、自給自足の実現したいと思ってきた。少なくとも大地を破壊してきた人間にとって、大地をもとに戻していくのは、当然の行為ではないだろうか?そして大地を尊重すれば、格差社会なんか気にしなくてもいいだろう。だって食料が確保できるのだから。

フリーター、ニートの運動って何?

 現実の運動は「生きようとする若者」の運動ではなく、「こういう社会をつくってきた大人が許せない」という復讐になっている。だから若者が食べられるはずもないのだ。

 なぜ、みんな生産の仕事をしようとせず、文章を書き、イベント、講演会を行なう人になろうとするのか?

 それは心のどこかで、「コンビニの仕事より、クリエイティブな仕事のほうが面白い」と思っているからではないだろうか。

 だったらそれは「自分の心が求めるものを実現しよう」という運動にすべきである。そう、みんなクリエイティブな仕事をする権利があり、その夢に向かってがんばればいい。でも現実は何だ?

「若者よ。みんな怒りをもて。こんなバカな社会を気づいた大人を罵倒しよう」ではないか。

 あなたの食べる物、あなたの住む家、あなたの歩く道、みんな大人たちが働いてつくってきたのだ。

 最近の行った「ロスジェネ」の紀伊国屋サザンシアターでのトークイベント。

 「僕たちより年いった世代はみんな加害者だ。僕らとそれより若い人はみんな被害者だ」とハッキリ語った。

 ちょっと言葉を置き換えてみよう。

 在日朝鮮人が、日本で生きるために日本人の集会に参加し、何を考えているのか学ぼうとしたとしよう。そのときに、「日本の社会が悪くなったのは、朝鮮人などの外国人が来て、悪くしたんだ。そういう人がすべて悪いんだ」と言ったらどう感じるでしょうか。

 こういうセリフを嫌う人たちが、言葉が違っているだけで、同じ理屈で罵倒している。ちょっと冷静になって、立場をかえて考えてみようよ。

さらに「後期高齢者医療に文句を言っている年寄りは許せない。年寄りは金を出せ、って言ってやるべきだ」

 日本の農業は自給276円しか満たないのに、お年寄りが大切に育ててきたんですよ。私の家の梅だって経費のほうがかかるけれど、大地を愛するから育ててきたんですよ。老人たちが。それをあなたがたは食べているのに、作った人を罵倒している。だったら食料も家もすべて自分たちで生産して文句を言ったらいいでしょう。そう、そんな苦労を背負う覚悟があって、やったなら素晴らしいでしょう。

 私は母の友だち、患者、そして活動家など、いろんなお年よりを見てきて、身体が不自由なのに、一生懸命生きようとしている姿を知っている。そういう人に心安らかに余生を送ってほしいと思う。たぶんロスジェネ世代はお年寄りや外国に住んでいる人、子どもたちの友だちがあまりいないから、言っていることのセリフにリアリティがない。つまり仲間としてつきあっている同世代、支持する若者だけが人間なんでしょう。後はロボットかゾンビ。だから残酷になれるのでしょう。

「私たちは金持ちに怒りをぶつけて、人を助けてきた。みんなも人を助けよう」

 私は雙田さという愛する男を助けることはできなかったし、医者は人を助ける一方で、医療過誤によって殺してしまう場合もある。たいてい殺そうなんてしないで、ミスしただけなのに。そして「ああ、自分は人を助けられなかったんだ」と高額の損害賠償を払う人生が待っている。

 どんな難病を治しても、結局その人は病院で何か別の病気で死んでしまうのだ。

 人が人を一方的に助けるなんてありえない。たぶん登壇者は「自分がこういう仲間を知って救われた。私は孤独ではないんだ」って自分が救われた体験をしたんだと思う。それなら「人を助けている」っていうより「自分を救うために運動が必要なんだ」って言葉にすべきだったのだ。

 私がいたセクトだって入った当初は希望に燃えていた若者が、辞めるときは失意のどん底になって、放浪する人生になってしまっていることが多い。やらなかった人より不幸になっているのだ。希望に燃えていた分だけ。

 結婚だって「この人と一緒になれてとても幸せ」って語った二人がなじりあって離婚するなんてザラにある。

 物事の楽しいときは作り始めるときである。そして維持していく段階になると、少しずつしんどくなってくる。そのものが腐りはじめてくると、新しくしようか、維持しようかと苦しむことになる。

 ではすべて絶望しかないのか?そんなことはない。

 作り始めを楽しみ、維持することを楽しみ、これまで功労に感謝して見届けていく、その最後のときはすべての反省をきちんとする重要なセレモニーで素晴らしい一瞬だ。

 だから「楽しいからやりましょう」で充分だ。「人を助けるらめにやろう」なんて言ってほしくなかった。

 私は時代の流れにマッチしたこの運動が取り上げられるのはわかるけれど、内容がしっかりしてないのにネタになるからチヤホヤする。この現象に周りが幻想を抱いているのにウンザリする。

 罵倒より感謝だし、憎しみより愛情だ。これは生命の普遍的な法則なのだ。

 待てよ。世の中には無数の団体があっていろんな活動を展開しているその一部にすぎない。そんな小さなことにいらだっている私は何かおかしい。こんなに小さな心の持ち主だったのだろうか?

 今あまりにもいろんなことが集中して私のもとに押し寄せてきて、気分はブルーを通りこしてブラックだ。

 そう職場だって何もしてやれない。母の死んだ後の処理ができなければ、遺産が没収されても仕方ないだろう。

 ハーブ関係の資格なんて、取らなくたっていいじゃん。若者は好きなように運動してればいいじゃん。

 そう、私はただわが道を行けばいいのだ。何もしてあげられなけれど、職場も、母の周囲の人たちも、大地も、若者も老人もただ愛する、そんなことしかできない。そのほうが愛せるはず。だって若者の運動がドーシタ、コーシタなんて言えば、人に期待した分、結果を求めたがる。そのことによって人に不満を抱き、「愛」の道からそれていってしまうのだ。

 だから、しばらくはいろんなことを、どうでもいいと思うことにしよう。でないと私のブラックは救えそうにない。

 


 母の郷愁に浸っていたいけれど、6月15日に漢方・生薬の認定薬剤師の試験を受けに行かなければならなかった。

 今の時代、薬学部が6年生になり、上位の資格を取らないと時代に遅れてしまうらしい。この年になると、基本的な政府の動向と、大衆の流れというものが予測できてしまう。こういう専門制度も海外からの輸入ものである。

 日本の文化というものをつぶすために法律ができているようにも見受けられる。この漢方・生薬というのも日本の伝統的な医療であったのだけれど、明治維新によって西洋医学が輸入されてしまう。そのことが保険制度と一体になり、西洋の合成された薬を販売するルートを確保され、日本の生薬は縮小されるようになってしまう。

 もちろん最近生薬に目がつけられていると言っても、日本での生薬づくりは老人が担っている。つまり、年金で生活できる人が奉仕で生産しているということだ。

 大自然の宝庫である中国は、乱獲により土地が変形し、黄河の水がひからびてきている。この背後に存在するブローカーたちの悪意を感じざるをえない。

 自然を守ってきた農民たちは、資本家の奴隷のように流行をつくられ、潰されていってしまっているのが現状だ。地球の恵みを破壊し、人間の思いやりを破壊する悪意。

 それはこの試験制度の中でも、時代に追いつこうとする薬剤師会が人間の階層拡大に参加して、空回りする現実になってしまっている。

 仕事は24時間の医療現場で、暇なときは試験勉強し、講習会に参加をし続けていく。更新制度なので、毎回何度も講習会に参加し、高額な料金を払っていく。

 この料金をケチった人は差別化され、貧しくなり、資格をとる料金も払えなくなってしまうのだろう。

 そんなんで私は薬剤師会に4万円払い、ケアネットによる講習会を受けたのである。この4万円以外にスカパー料金プラスケアネット加入料(3,150円)が毎月かかってしまう。受かったらまた2万2千620円を払わなければならない。

 もちろんこれ以外に認定薬剤師にもなっているから、毎年合計で20時間以上の講習会を受ける必要があり、両方あわせると毎年40時間の講習を受ける必要に迫られるわけだ。

 さらに今回の試験、結果が不透明である。そう、大学入試のように定員があるわけでもなく、ボーダーラインが何点なのかもわからない。

 だから推測のしようもなく、いいなりなのだ。自由時間をなくして、人間の能力が資格で測られる時代。

 それでもこの資格を受けるのは、地球環境がかなりヤバいから、少しでも自然を大切にする薬剤師としてのかかわり方だと思ったからだ。

 以前から薬草園みたいな何かを育てる。もちろん野菜や穀類とも合わせ、自給自足を目指したライフスタイルだ。交換価値であったマネーはもはや人間を支配するところまで来てしまった。不要なマネーをゲームのために貯蓄する。

 そうやって民衆からお金を取り立てていき、みんな自由のない世界へと貶められている。なぜ金持ちが何千億もお金を所有することににってしまったのか?

 そう、私たちはこのマネーを絶つことによってしか、自由になれないのだ。麻薬中毒になった人が麻薬を絶つことによってしか自由になれないのと同じで。

 そのためには原点に戻ろう。お金は価値を生み出さない。生産が実態を生み出すのである。だからこの大地と農産物を育てることで、私たちこのイビツな管理社会から脱出できるのだと思う。

 今回は受からなかったら、来年しか受験資格がない。厳しい時代ではあるけれど、精一杯生きることは自分の成長につながるし、この人間を育てた大地へのお礼にもなると思う。だから、少しずつ何かを積み重ねて行きたい。

 ちなみに私はハーブア・ドバイザーとハーバルフード・オーガナイザーの資格も取ったけれど、これはまだ民間資格なので、もう少しお金が高い分、内容は簡単であったから、受かるのも楽だった。もちろんこの資格も先が永遠にあり、終わるところがない。どんどん資格をとるために休日まで犠牲にする人間と、もう少し自由のある時間働いて低賃金で苦しむ人間になるか、どちらに転んでも絶望だ。

 また、後部座席のシートベルトの着用や駐車の取り締まりなどの厳しさ。そしてタスポの導入。そう、政府が決めたことに言いなりになる奴隷として生きるか、抵抗して罰金を払い続ける人間になるのか、これもどちらも絶望だ。

 そう世界資本に日本は支配され、日本人のことより、大資本の某家に媚びる人間に成り下がった政治家によってこの国は成り立っているのだ。

 だから、お金への依存を減らして、もっと人間の本質である自由を取り戻そう。だから農業を大切にし、環境に優しい生き方を選択しよう。

 


2008/6/17 火曜日

母が他界する 3

Author: 早見 慶子

母が見た夢 

 いつだったろうか?たぶん2,3年前のことだったんだと思う。母の夢に私が出てきた。

 「ミエコがね、外国に行ってしまう夢を見たんだよ。すごく遠くに行ってしまって会えなくなるなあって、しみじみと感じてたらね、すごい頭痛が襲ってきたんだよ。そしたら、そのまま倒れて気づいたら、私のお葬式だったんだよ。死因は『くも膜下出血』だったんだよ。私の写真があって、みんながお焼香あげてたんだよね」

「お母さん、それは夢なんだから。縁起でもないよ。どこも悪くないんだから、大丈夫だよ」 

「そうだね。ここのところ頭痛が続いたからかもね」頭痛。私もよく頭痛を起こす。毎月のように片頭痛と吐き気が襲う。女性にはつきものの症状だ。片頭痛になったら、歩くだけで振動し、血管に血液がストレスを発散させようと殴りかかっているかのようだ。

 だから「頭痛か。女性に多いものね」何て流してしまっていた。母は気になったのだろう。脳ドッグにかかり、精密検査を受けた。結果は異常なしだった。母はいつも検査では異常なしになる。本当に健康体だった。

母の見た夢が正夢になろうとは思ってもいなかった。

「私が外国に行ったことも全部隠していた。香港のときもイエルムのときも。余分な心配させたくなかった。だって観光旅行とは違うから、食べ物の話も宿泊施設や観光地の話だってできない。過去、過激派にいた娘のことだ。また何かしでかすんじゃないかって不安になるに違いない。

 そう、ラムサの学校なんだから。太古から伝わる智恵。私はどうしても普通の人間になれないらしい。そんな私の行動を知ったら、老齢の母はショックだろう。結婚するよっていう話のほうが安心に違いない。過激派だったときは母もまだ若かったし、父もいた。そう、支えてくれる家族があった。でも今回は違う。だから黙っていた。

 それなのに「外国へ行く」っていうことと、突然の「くも膜下出血による死」の結びつき。母の見た夢は未来だったのだろうか?母は予言や占いなど人並み程度にしか、信じないたちだ。それとも、母は無意識に自分の死を選択していたのだろうか?

  死に方の美学

母はいつも言っていたことがある。「介護するようになりたくないし、ボケたくもない」って。私の家では祖母も95歳まで生きた。ボケることなく半年の間、寝たきりになっただけだった。母が看病し、安心して逝けたんだと思う。

 父もそうだ。癌だとわかって三ヶ月で死んだ。癌に動揺することなく、どんな治療も受けた。ただ「家族が納得する医療をしてくれたらいい」とだけ語った。

 祖母も、父も母もみんな私が東京からかけつけるまで、ちゃんと生きていてくれた。たぶん「子供に会うまで、待っていよう」と思ったのだろう。もちろんいろんな死に方がある。介護を受ける必要になった人は、霊的な世界では、子供が介護することを通じて人間的に成長できるように、寝たきりになることが多い。すべては魂の成長にとって最もいい関係を築く、大きなイベントが肉体の死だ。

 「前世療法」の著者である医師、ブライアン・ワイズ博士は、自分の子供が身体疾患を持って生まれ、結局幼くしてこの世を去った。科学によって解決できると信じたブライアン氏は、自分の息子を助けられなかった自分に限界を感じた。そして精神科医に専門を変えることにした。退行催眠をして前世まで語る患者に出会い、マスターである別の声さえ聞くようになった。

 マスターが語った。「あなたの子供はとても霊的に優れていたので、あなたの子供として、身体に欠陥を持って生まれる人生を選んだんです。あなたが科学だけがすべてだと思い込み、霊的な分野に否定的だったので、そのことに気づかせるため、そういう身体で生まれたのです」と。

 肉親の「死」は必ず何かの意味を持っている。それは身内だけに発せられたメッセージだ。そう、家族として選んだ魂はすごく深いつながりあり、でも多くはそのことを忘れてしまっている。だからもう一度「死」を通じてメッセージを送るのだ。だから人は自分にとっての意味を内省する必要があると思う。

 たぶん私の家系はずっと土地の地主として中心にいる役割を担ってきた。だから、世話をするほうにまわらなければいけない、という責任感を持って生きてきた家族であったと思う。その堅苦しさが嫌だったのだけれど、今はその堅苦しさの持つ意味がやっとわかってきた。

 私は左翼をやってきたけれど、人にタカる生き方はしたくなかった。だからいつも資金を出す側にまわろうと、努力してきた。活動を辞めたとき、あるときは仕事が終わってからもバイトをし、休みの日もバイトをした。それは、親に教わらなくてもそういう姿を見てきたのか、それとも似た意識だから家族になったのかわからない。

 私は介護しなくてよかった分、他で役に立つことをする、それが責任なんだと思う。そう、数多くの人々が介護を通じてドラマを演じている。あいている時間だけするボランティアとは違う苦悩。それは介護するほうだって、されるほうだって辛い。

 みんな己の精神と闘い、人生の最後を締めくくろうとがんばっている。ときに芽生える苛立ちや敵意。そんな意識を越えたところで介護は成立する。そういうドラマを演じている人たちは素晴らしい魂の持ち主だ。

 だからそんな魂の声に応えられるような、社会への関わり。社会運動に欠落した意識の問題をもっと大切にした新しい活動。

 そう、それは母があまりにもあっけなく逝くことで、私に「遠慮しないで、自分の信じる道を進みなさい」と言ってくれたような気がする。

 私が生きること。母の死に方と密接につながっているんだと思う。自分の背後に感じるいろんなメッセージ。それを多くの人に伝えていくようにがんばるから。それが、私に与えられた使命なんだと思う。

 使命って何? それはバランスの中で感じること。たとえば、みんながAばっかり食べて、Bのおやつがあまっていたら、それを食べてバランスをとろうとする精神みたいなもの。だからみんな生きる場所で、使命って違ってくると思う。

 でもそんな何かが人の死ってすごく強烈にアピールしてくるもんだと思う。

 母の苦しみ 

 私は金庫の鍵を探しているとき、ノートにはさまれたレポート用紙書いてあるメモを発見した。私が活動している時代のメモだ。 

  平成1年 1989年 8月24日 A.M 1:04

眠れない夜。娘見江子との離れてしまった心。おもいやりの心 失ったのか人は皆孤独なのか 

9月8日 A.M 4:20

 7月からのTEL 見江子からはなし。仕方なくこちらから連絡。

8月も同じ。

9月 いまだなし。就職の時、親を利用し 保証人への義務として最低のつとめと思うのだが月1度のTELすら守ることをしない娘。

親子のきずな 親が子を思う程、子は親を思わず自立といえばそれまでだが、それぞれの生活を尊重しあい干渉しないといっても、これでは人の道としてどうみてもはずれているのではないか。血のかよわない冷たい娘になりかわったのか。少なくとも親子の愛情はなくなってしまっている。子・・・・・・・・・親 電波とどかず。

眠られぬ夜明け いつまで続くか一体何の為に ピアノ、お茶、大学までやったのは、といいたくなる。情けない。 

 9月10日 A.M 2:25

 またこんな時間に目が覚めてしまう。思うは見江子のことなかり親の心 子知らずとはよく言ったものだ。その一方で 子の心親知らずなのか、と心淋しい思いがする。思うと肩がこり、ますます目はさえる。

 9月24日

 このところ夜眠れず 目はさえるばかり。

 見江子の心はすでに親のことも家族のこともすべてないとみえる。家庭の愛情に飢えていたのか。これほど親は子どものことを思い、幸せを願うも子どもには全く通じない。

 31歳、まだまだ人生これから再出発も可能なのに、自ら実りなき、かたくなな人民ともにはたわごと。人から離れ、小さな殻に閉じこもり、ますます裏街道を歩く子ども。親として耐えられない苦痛なり。主人はただどうしようもない、というのみ。親だからこそ、やはり避けていても仕方ないこと。考えまい、考えまいと逃げてしまい、子どもの心はつかまえられず。大学まで出して、それで責任はすみ、と割り切ればいいのだが。

  9月27日

 26日テレホンカード入り手紙出す。今日は電話あるかと思いしもなし。またストレス。眠れず。 

10月7日 一泊帰豊。伊良湖行。

以上。 

  母のメモを見て、再度心を痛めた。活動をするとは、少なからず、周りの人を傷つけていく。本家である家に育った私は「家族」という絆を「家制度」の存続で語られることにウンザリしていた。そう、関係性が最初から親が上であり、子どもが下だった。だから私は意見が違ったとき、矯正されるほうでしかなかった。

 だから親との対話を諦めていたのだと思う。何を言っても私が活動をやめない限り、批判され続ける・・・そんなケンカなんてしたくない。

 いつか、活動の評価が変われば、わかってくれると信じていた。その日はついに来なかった。親の語るように「人」から離れていただけなのかもしれない。

 少しずつ母と話し合えるようになった。そう、それはお互い心を開いたせいかもしれない。お互いに「わかってもらえない」という意識が対話を妨害していた過去。

 人は理解し合うのに時間がかかる。それなら、わかり合える存在だけどつきあったらてっとり早い。

 しかし、わかり合える者同志の出会いはあの世の世界だ。この世では価値観の違う存在が雑居している。だから魂の成長があるのだと思う。

 私はいつからか、経済政策でしかない分配の法則を絶対の思想にし、敵と味方に人間を分類し、闘うようにしむけたマルクス主義に疑問を持つようになった。

 平等であるとはどういうことか? 敵だとか味方だとか人間を決めつけ分類することは差別の延長線にある。マルクスは経済分析において優れていたけれど、人間の魂の成長、という東洋人の美意識に関しては理解できなかったのではないだろうか? もちろんキリストの思想でも触れられているが、いつの間にか、ユダヤ教の復讐の思想にすりかえられてしまった。

 マルクスの思想も根底にはブルジョアへの復讐心があり、克服されていない。だから破壊によって革命に導こうとしてしまったように思う。

 あらゆる存在への愛。そのことが前提になければすべてが虚しい。私は若い頃ありがちな、親への反抗をもう一度反省しなおしていきたいと思う。私に思いやりがあれば、もっと穏やかに説明できたのかもしれない。これからは、そういうふうに努力しなくちゃと思う。すべての存在へ。

 母にとっての父

 母がいつも使っている部屋がある。とても大きなテレビがある。日常的に使うバッグや衣類。ストッキングからフェイラーのハンカチまで押入れにしまってある。そういえば母はフェイラーのタオルハンカチが好きで、「類似品を買っても吸水力が断然違うからドイツのハンカチはすごいね」って私にも買ってくれたっけ。

 洋服ダンスは二階にある。膝が悪いときに一階と二階を往復するのが大変なんだろう。いつの間にかこの居間が母の生活の場になっていたのだろう。

 そんな中に紛れてピンクにカラーのラインが入った一冊のノートが見つかった。父が亡くなってから、その思い出が記入してあった。父が亡くなってから、ほぼ一年経っている。

  平成14年 11月13日

 46年という年月を共にした貴方がいなくなってはや一年が過ぎました。振り返れば昨年の7月「今頃、食べ物が本当はうまいのだろうが、どうもうまくない」といつも食べていたことに大きな疑問ももたなかったこと。

「今日は恵理子(当時まだ保育園に通う姪)が『オジイチャン ケンケンパーやろう』と庭でやったが、おかしいなあうまく出来んかった」とか、「玄関前で転んで眼鏡をとばした。捜すがわからん」とて共に一生懸命捜したこと。

 そういったいつもと違う変化に貴方も私もそんなに真剣に深刻に受けとめず、「どうしてかね」くらいにしか感じておりませんでした。

 そういえば、5月頃かしら、よく昼間うとうと寝ることがあり、53年もの長い間の勤め人生活、やっと家にいる様にになり、気が抜けたのか、まあいいではないか、それでも田舎の草刈もするし、パソコンもやる。自動車で買い物にも行き、豊川べりに写真を撮る折も暑い中つき合ってくれるし、どうみても病気の前兆など気づくことができませんでした。

 7月30日 名号に行き、貴方は梅の消毒を、私はお盆前の草刈をしました。帰宅した折、貴方は「今日の運転はよかったろ。今頃どうも遠くを見ると焦点があわないんだ。だから片方の目で見るようにした」と言いましたね。そう言われても近くを見てもテレビを見ても視覚に異常ないという貴方に深く心配しなかったとはうかつでした。

 そんな翌日7月31日、NTTパソコン教室最後の日、自転車で道路に出たとたん転んだとき、ニヤニヤしながら、また普通に乗って授業をこなし帰って来ました。午後のひとときみかんや巨峰を食べようと貴方が口にしたとき「うまくないなあ。どうも酸味が苦く感じる。味覚がおかしい」と言う。

 そんな貴方に「こんなにおいしい果物が苦いなど胃腸科のかかりつけの医者に口のうまくなる薬もらってらっしゃい」と言ったのがことの起こりでした。帰ってきた折、「脳神経外科を紹介された。これから行ってくる」と陽の落ちかかる夕方5:30、車を運転して診察、7:00頃帰ってきました。

「ヤイ、オレの頭の中が脳腫瘍でベタベタだった。それも大きいのは小脳の上に大人のこぶし大もあって、これは手術でとれるが、あとはシャボン玉の様にいっぱいあった。これは放射線でしか取る方法ないらしいわ。まあいいか。オレもやるべきことはやったからな」ときわめて冷静に話しかけ、「今度はお前も一緒に来るように」と医者に言われたとのこと。8月3日は寺の棚行だから、8月4日の9:00に来るように言われたと言い、いつものように夕食を食べました。

このときから、3ヶ月余でしたね。その間6時間の手術を受け、味覚は戻り、食事もできるようになり、「良かったね」とほっとした時。それから1日1日、顔も目もとても優しいのに貴方の名前が、私の名前が出なくなり、2週間後8月21日から放射線療法が始まりました。

足の自由、こちらの指示、「右足を出して」と言っても「わからない」でした。2週間余、13回かけたとき、初めて貴方は先生に正確に的確な言葉が語れる喜び、1日1日よくなって一人で歩くことができ、車椅子から一人立ちし、9月半ばには我が家に外泊し、9月20日の大安に退院しました。

9月29日の哲也の鎮魂祭のときは、さっと歩いて一人で行き、写真をとってくれました。庭の消毒もしなくては、と嬉々として車を運転、「こんなによくなるとは思わなかった」と嬉しそうに草むしりまでしましたね。見舞いにいらした親戚の人や友人に次々電話でお礼をし、言葉ははずんで二人の生活に戻り、毎日入浴する喜びも味わいました。

 そんな日も長く続かず、10月半ばより、足の自由が少しずつ効かなくなり、「とうとうオレもダルマになっちゃったな。皆のいうこと聞くからな」46年の結婚記念日 13年10月30日、31日の大安の日再入院しました。40日ぶりに以前にいた部屋、南側の希望の部屋でしたね。脳腫瘍はどんどん広がり、貴方は視力も少しずつ衰え、焦点があわなくなり、茶碗のふちにおはしがいったりし、ついに自分で食べるのも難しくなりました。

 3,4日微熱が出て、11月30日 10:20、点滴の最中に痙攣、哲也午後休み、大須賀夫妻、夕方本間夫妻、見江子にも連絡、10:00頃より哲也、見江子、私の家族見守る中11月14日午前1:00静かに息をひきとりました。あれから1年たちました。中略。

 それはそれは大変でした。やっと今振り返り、よくここまで来た、我ながらよくやってきたと思っています。

 哲也もこの1年毎夕、毎週のぞいて貴方の仏壇に線香をあげてくれます。ありがたいことです。私も1日もかかさず、木魚をたたいてお参りして1日が始まります。何をするにつけてもあなたと一緒の時のことを思い出しながら、過ごしているととても落ち着けます。

 46年間貴方とともにあった数々の想い出は私の残された人生の宝物として、貴方のもとへ行くまで、大切にしておきます。私の財布の中の写真、部屋の中の貴方の写真、いつも見つめながら、心の中は貴方と一緒です。街で老年夫婦の仲睦まじい姿をみるとやっぱりうらやましい。

 哲也の車で名号へ行くときは、ああ、隣で運転していたのは貴方だったのにとふと思います。でも哲也もよくやってくれていると思います。ああ、何もかもが今は夢なんだと我にかえりました。今日は11月13日。貴方が亡くなって1年になりました。一人暮らしがんばってます。

以上。

母の財布の中には父と一緒にうつっている写真、姪が小さくて可愛かったころの写真、家族で一緒にとった写真が入っていた。母は写真が好きで、よく撮っていたけれど、その中でも一番表情がいいものを選んでいる。このお気に入りの写真が引き出しの中にもしのんでいる。たぶん疲れたときに見ていたんだろう。

  子どもの頃、父と母は決して仲よさそうに見えなかった。それでも長い年月が家族の絆と愛情を育てていったのだろう。私は母と離れて生活している。そう、1ヶ月に1回の電話だってしないくらいだ。それなのに他人の死と全く違って、悲しい。泊まるところがなくなる。それは故郷が遠くなるっていうことだ。想い出の宝庫。小さい頃、喘息だったとき、父が水あめをいっぱい買ってきた。食べきれなくて困った想い出。夜中に発作が出て、眠れないとき、いつも母と祖母が私をあやした。父が眠れないと仕事に支障が出るからと、交代でがんばった。

 呼吸が出来ず、細くなって息の通らないかろうじてヒュー、ヒューと変な音をたてる。普通の息の三分の一くらいしか通っていないような苦しさ。ときどき天井さえ上下している。ぐるぐる回っているときもあった。自分がおかしいと思わなかったから「天井が動いている」ってよく言ったっけ。

 数え切れない想い出はやっぱり幼いときにある。だから、故郷や家族って想い出という絆があって、そこにメンタルな家があるんだよね。他人にとっては物体としての家なのかもしれない。でも、家族にとっては憩いの場であり、イヤなことも含めて、苦労しあった魂のふれあいの場だったのだ。だからそれは遠く離れていても意識の中でつながっている。家族。この不思議な存在。一緒にいるとうっとうしくもある存在。なのにいなくなると愛おしい存在なんだね。

 いろんな事件があり、若者が犯罪に走っていく。家族を愛せない人たち。でも、家族に対する見方が変わるともっとありがたさがわかってくるんじゃないかしら。少なくとも、家族って偶然の出会いではなく、魂たちが引き寄せあい、成長のために選んだ場所なんだから。もちろん過酷な運命を背負っている場合だってある。過去の恨みが引き寄せる法則になって、家族になってしまうケースだ。

 だから何となく信頼し合えない。そう、憎しみを愛情にしていくためのレッスンの場が家族でもあるのだ。憎むっていうことは、自分の中に心の狭さや嫉妬心があるっていうことだ。その心を変えないで相手の存在を消したところで、自分の中に憎む心がある限り、別の人を憎んでいく。そういうことを繰り返していくのが人間だ。だから、この一瞬、一瞬の今を大切にし、心を豊かにしていけたらいいね。


2008/6/9 月曜日

母が他界する 2

Author: 早見 慶子

母の夕飯

 母のキッチンには、その日の夕飯があった。ご飯を炊いていて、味噌汁がつくってある。きんぴらもあった。たぶん家に帰ったら、魚でも焼こうと思っていたに違いない。

 母の味噌汁はいつも美味しかった。豊橋では赤だしを使うことが多い。私はうどんと味噌汁の味だけは、どんな料理屋の味付けより母の味だ好きだった。

 一人暮らしになっても、ダシはかつおぶしからとっている。今の時代のようにインスタントなんて使ったことはないらしい。

 「この味噌汁美味しいね」と私が言う。

 「この味噌美味しいからね。三八で売ってるこのお味噌が一番おいしいからね」と、味噌の味が美味しいせいだと話した。

 三八とは、三と八がつく日、つまり三日、八日、十三日、十八日、二十三日、二十八日の朝に並ぶ市のことだ。

 スーパーと違い、現地から直送された新鮮な野菜や果物、卵、味噌や団子などいろいろな食物や衣類などが並んでいる。だから、三と八のつく日はお目当てのものを買いに、主婦たちが楽しそうにやってくる。なじみの客に何かおまけしてくれるのもこの市のありがいたいところだ。

 レジに向かい一列に並ぶスーパーとは違う。そこではお客とのコミュニケーションはない。ただいち早く、レジをうち、素早く袋を渡すそんなロボットのようなことしか要求されていない。

 この市では、売る人とお客は友だちである。家でとれた梅も毎年この市に並んでいた。そんなアットホームな田舎の匂いが、この味噌汁の味にプラスされて余計にひきたっていた。

 そんな味噌汁やきんぴらが母の帰りをずっと待っているようにそこある。待ちくたびれたおかずやご飯。きっと戻らない母のことを心配し、悲しんでいることだろう。切ない。

 の日母はちぎり絵や水墨画の受付の当番だった。終わって家に帰り、食事の準備をしてから、服を着替え友だちとコーヒーを飲みに行ったのだろう。いつもきちんとしていた。

  ちぎり絵と水墨画

母は芸術的なことが好きで、ちぎえ絵も上手で、教材の手本に載ったこともあると言う。サークルの中心にいて、講師も勤めている。

後から始めた水墨画でも副会長をしていたらしい。やわらかなタッチとダイナミックなタッチのコンビネーション。晩年は言葉と絵を組み合わせていた。言葉は絵手紙に使われるような、心に響く言葉を使う。

家に帰ったとき、人の顔の笑顔を上手に書きたいと、顔の描き方の説明をしていたことを覚えている。ちょっとした筆のタッチで笑顔が違うという。本当に幸福そうで、品のいい笑顔を表現するように心がけていたらしい。

 この展覧会に出すちぎり絵に出ている人形の目を三日かけて位置を考えたらしい。芸術家に特有の妥協したくない性分だったのだろう。その反面とても社交的な性格だった。このちぎり絵と水墨画の合同の展覧会も母が考えたことなんだろう。気運を高めようとして。

 お友だちが言う。よく「八名喫茶へ来て」と誘ってくれて、コーヒーやお菓子を出しておしゃべりをしたと。いろんな人に会うたび、つい最近会ったばかりだという。元気だったのにねって。母は何人の人にそんなに会っていたのだろうか?まるで私みたいだ。

ちぎり絵や水墨画の色紙、掛け軸やうちわなど、いろんなものを人にあげていた。

母は「何かをつくったら人に上げて喜んでもらうのが一番だよ」とよく語った。だから私がビーズをつくったら「みんなにあげなさい」と言っていた。

所有するのでは流すことを良しとした。それに自分の作品を友だちに売るっているのは、下劣な行為で与え合うことによって人間は喜びが共有できると語っていた。母との距離が遠いと思っていたけれど、亡くなってから振り返るといろんな共通点があったんだと思う。

私が子供の頃、祖母と同居をしていた。だから、祖母に気を使って、あまり友だちを呼ぶなんてしなかった。父の兄弟で仲がいい人だと、祖母も一緒にお話ができる。だからなるべくそういう親戚のつき合いを中心にしていた。

かなり自分を抑圧してきたのだろう。だからその分今は、多くの人を自由に家に誘えるようになったのに違いない。たぶん母は充実した毎日の中で死を迎えたのだろう。だからいい死に方だったのかもしれない。

 死化粧

 母は外に出かけるときはきちんと化粧をしていた。着る物やバッグ、アクセサリーなどはいい素材のものを使い、身だしなみがだらしなくなったら、老いが始まる気がしたのだろう。

 女性にとって老いてもきちんとした化粧をするのは、憧れらしい。私の周囲の人がよく語っている。私違った。ファンデーションなんてすごいイベントがあるときくらいしか使わない。若いときはいい。この年になっても若い頃の習慣がやめられないらしい。

 それにプラトンの著作で、ソクラテスは「化粧術より体操術のほうが大切だ。化粧は顔色の悪いの隠すためにある。顔色をよくするため、体操をして血行をよくしたほうがいい」と語っていた。

 だから自然体がいいと思い、素顔と化粧のギャップを少なくしたいと思い、いまだにあまりセンスのいい身だしなみが出来ていない。

 そういう母の生前のことを思って、母に化粧をしたかった。ところがそのまま棺に入れられて葬儀屋に運ばれてしまった。母の最期に見られる顔である。人に対していつものきちんとした顔にしたかった。

私はちらっと親戚のおばさんに「化粧したかったんだけどね」と漏らした。

そしたら「私も同じこと思ったんだよね。あれじゃかわいそうだよね。」と返ってきた。

 私は急いで兄に伝えた。「女の人って化粧するから、してあげようよ。まだ始まるのに二時間あるから」

 「僕は男だからわからないよ」と言い、葬儀屋に今から化粧をしてもいいか聞いてみた。

 「だから、一度聞いたじゃないでうか。自然体で出すって言ってましたよね。今からは無理ですよ」と言う。

「そのとき私はいましたか?」と聞いた。

「いや、お兄さん夫婦だった思いますよ」

 兄は記憶にないらしいから、兄嫁の判断なんだろう。でも私もおばさんも同じことを感じたら、母のお友だちも同じように感じたに違いない。口紅も眉墨もない顔は何となく気の毒だった。

 霊になった母が葬儀のところに顔を出したら「まあ、なんていう顔しているの。最後の顔向けのときくらい化粧してくれたらいいのに」って。

 兄嫁はスポーツが得意で、バトミントンで市の大会で優勝したこともある。だからあまり化粧や身だしなみに気を使うのは好きな性格じゃない。自然体が好きなのは私と同じだ。  

 でも、顔を見られるのは母なのだから、母の好みにしてあげたかった。残念だった。葬儀屋によれば、兄、兄嫁、私という順番が正当な順列だという。私は娘だけれど、兄嫁の下になってしまうらしい。

 もちろん兄嫁も大変だったはずだ。私の父が入院しているとき、母は泊まりこんでいた。車の運転できない母に代わり、兄嫁はよく病院へいろんな物を取りに行ったり、食事など買ってきてくれた。義母に対して当然のことだと思っていた。

 「私の父が亡くなったときは、こんなに毎日病院へ行かなかったんだけどね」そんな思いをかみしめて、我が家に奉仕してきたのだろう。ときおり見せる苛立ちも必死の思いで、がんばっているのだから仕方ないことだろう。

 今のご時世、義母を敬遠する人が多い中で、こんなにがんばってやってくれるお嫁さんはあまりいないに違いない。たいていは義母より自分の母と仲良くしていることだろう。

 お母さん、化粧しなくてごめんね。でも肉体はいつか朽ちるのだから、これから旅立つ世界のことに熱中すればいいんだよ。みんなに愛されて素晴らしい人生だったね。棺の母を見て、私はそう伝えた。(続く)