早見慶子の十条日記 » 2008» 4月

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 実録・連合赤軍とは違い、とても空いている。平日ということもあるのだろうか? 主役の岡田中将を藤田まことが演じている。子どもの頃の藤田まことといえば「てなもんや三度笠」のイメージがついてまわってしまう。「はぐれ刑事純情派」では、成熟した役者ぶりを発揮させ、とても魅力的なおじいさまになっていた。 そんな実力があったのだろう。苦境に立たされても部下を守り続ける美しさを損なうことなく、演じきっている。 私はこの映画でアメリカ軍の空襲の卑劣さを初めて知った。実家の豊橋も焼け野原となり、逃げいく途中に炭になった人間たちが転がっている。家族や友だちの死を目撃しながらも、止まっている暇なんてない。 そう、人間を殺し尽くす作戦だったのだ。爆弾を落とす。逃げる方向にも落とす。火の手が回って焼き殺す、残酷な殺し方だ。そう、戦争だったからではない。暴力のあまりの惨たらしさに抵抗力を失わせていく、権力の誇示が目的だった。だから広島、長崎に必要もない原爆を落としていったのだ。 結局岡田中将軍は死刑になった。でもどこまでも堂々しており、敵にさえ、尊重した態度をとり、部下の減刑を意識している。たいていみんな自分がかわいいから、他人のせいにしたがるものだ。こういう勇気を見せられると昔の時代の美学は今も守らなければ、という責任感にかられてしまうのは、私が活動家だったせいだろうか? この裁判を見たとき、捕虜への処刑も根拠があって行っているケースもあったのだと気づかされた。 復讐なら赦されるというチャンスがあったけれど、岡田中将は媚びるつもりはない。処刑だったと主張し、死刑を覚悟した。そう、彼にとっては自らの命より、真実のほうが大切だったのだ。彼の考え方の根底には仏教があった。仏教とは悟りを切り開くことである。魂の気高さこそ問題であり、天皇制のような膠着した絶対的関係ではない。 だからこそ、永遠に修行を積む。悟るまで。結局現世とは己の修行だけがある。他者を通じて己を知るために。ところが大方の人は他人の評論に明け暮れて、自分を見つめようとしない。たぶんそうなってしまったからこそ、精神的に虚しいのだと思う。 この映画を通じ、もう一度自分を見つめなおすことの大切さを感じた。部下を大切にするリーダーであり続けること、それは権力を持った人間にとって簡単なことではない。だからこそ、岡田中将の生き方を手本にできたらと思った。


 見沢知廉。亡くなってからでも存在感があるのは、その独特のキャラクターのせいだろう。

一年前、天皇ごっこー母と息子の囚人狂時代ーを上演し見に行った。

 今回も同じなのかと思ったら違っている。サブタイトルが思想ちゃんと病ちゃんだ。それは見沢さんのイメージからいろんなことが連想できる、ということである。そう出会った人の数ほど彼のイメージはさまざまだ。

 そんな彼を支えたのは母親の愛だった。凝縮した人生は苦労の連続だったであろう。

私の中でも思い出すたびに、彼のイメージが変わっていく。そのミステリアスな存在を愛するのは高木尋さんも同じだったんだろう。

 今回も思想にとりつかれたように真剣になり、かつ病に蝕まれて苦闘する、そんな彼の姿

が鮮明に表現されていたと思う。

 鈴木邦男さんとのトーク。

 「女優さんとのつき合いは大変でしょう。みんな我がままで、私だけを見てっていう人ばかりとつき合い、まとめていくんでしょ。」と鈴木邦男氏。

「僕は人間と思ってないから平気ですよ。女優さんだとか俳優さんと思って接しているからね」と高木さん。

 意地悪な質問に対し、役者のモチベーションも下げてはいけない。巧みなトークは高木さんの鋭い感性と優しい思いやりが現れている。

 高木氏は「演劇に完成はない」と言っていた。毎回イメージが変わり、役者によっても味が違ってくる。だから不完全な状態で終わるという。

 まるで人間の人生だ。人の人生も何かを求め、目標が変わり、また努力をする。完成されえないのに、必死で生きる。その瞬間、瞬間の喜びを味わうためなのか?

 あるいは苦悩に倒れて起き上がれるか、自分を試すためなのか?

「革命」なんて目指さなければ、挫折なんてない。「三島賞」なんて目指さなければ、ショックなんて受けない。

 そう、その困難を設定したのは自分である。新しい自分を発見するために。

見沢さんは辛くても、挑戦する人生を選択していった。傷つき、ボロボロになっていってもチャレンジした。

 だからずっと愛されているのだと思う。

 この日、設楽さん、中川文人さん、佐伯紅緒さんも来ていた。亡くなって何年たっても見沢さんを通じた友人でいられる。そんな絆を見沢さんはつくってくれた。

 次回の公演にも行きたい、と思う。

 そ


 この映画、上映されて何日もたっている。にもかかわらず、ものスゴイ列に驚いた。ここのところ左翼映画でこうしたヒットは珍しい。年配の人ばかりかと思いきや、若いカップルの姿もあちこちに見受けられ、どちらかというと私より若い人たちのほうが圧倒的に多そうだ。 そう、あの世代の子どもたちに違いない。親からそういう話を聞いたのだろうか? 3時間近い長さにもかかわらず、退屈させないこの映画は若松監督の作品の中でも最高傑作に違いない。 

 あの時代だからこそ、革命という幻想を信じることができたのだろう。だからこそ真剣になる。赤軍派は文字どおり軍の建設を中心にした。暴力という魔力。考えて見れば、あの時代のブンドは犯罪を通して革命運動を追及した。大衆を喜ばせることより、軍事的な激突。それは人々の心に複雑な何かを刻み込む。そして法律を破って何が悪いという若者の持つ無鉄砲さが、さらに破壊への魔力となって、悲惨な事件を起こしていく。同志殺害という悲劇。 

 交番を襲った仲間が銃殺された。そんな苦悩が拍車をかけたに違いない。兵士になるとは命を張った厳しい行動なんだと。  私も過激派に属していた。だから求められたのはまず兵士になること。つまり、日常が平穏だから、余計に意識変革がないと兵士は勤まらない。たぶん大衆運動なら労働組合の人たちや市民運動の人たちのほうが得意だろう。でも我々は兵士だ。それは訓練しないとできない。その求められる資質は今も昔も変わらない。 

 ただ軍事が階級情勢を切り開くという幻想が持てるかどうかは間違いなく変わった。今どき、集団で革命を起こそうという幻想さえ持てない時代になってしまった。法政大学にちょっと頭突きをして、ケガさえしてない行為。そんなことで半年も刑務所に拘留され、200万円の保釈金がかかる。誰だって活動したくなくなるよね。 

 さてあの仲間へのリンチは本当は凄くおぞましくて気持ち悪くなるものだというのは、想像つく。私たちのゲリラ戦の時代だって精神的におかしくなる人が続出していた。中核派もそうだったという。私もその一人だったのかもしれない。現場で粛清を見ている人たちの気持ちはどんなだったろう。「次は私なのか?」という恐怖。そして人望のない人が指導部にのし上がってしまう年功序列。本当に精神が追い詰められていなければ、あんな悲劇は演じられなかっただろう。 さらに森さんと永田さんの「女の子らしさ」への憎悪。だから遠山美枝子さんはターゲットにされたのだろう。そしてパンタロンを買った大槻節子さん、妊娠している金子みちよさんへと容赦なく発展していく。 内側にともるジェラシーは永田さんだけでなく、女性の本能とも言えるものだろう。たいていカワイイ女性はイジメの対象になってしまう。マネできない愛らしさ。その可愛らしさが男性に受ければ受けるほど軽蔑するようになっていくのは、まだ女性が自立しきれてない現代にも共通する。 それが極端なかたちで表現されたのがあの事件だろう。たぶん彼らは内側の敵と闘うより、外側の権力闘争のほうが重要だと思える時代だったのだろう。愛のために闘うのでなく、仲間への憎悪に転化されてしまった現実。日常生活で権力を憎悪する体質の極端な結果が、裏切り=権力という構図に突き進んでいく。その結果弱い主体=裏切りであり、権力に近い存在として認識されてしまう。恐らく日常の中で「愛」を心に育てていたら、極限の中でも守るべき何かがあったようにも感じる。それは誰にでも特殊な状況下で生まれてくる、人間の感情だ。酔っぱらったときの自分は日常ではない。それと同じに軍事訓練で閉じこもった状況も日常でない。でも、心に「愛」を育てていたら、何か歯止めが聞いたのだろう。たぶん赤軍派や革命左派にとって、「暴力」「破壊」「敵への憎悪」が革命への原動力だったのではないだろうか。 

指導部を疑うことを知らなかった下部の悲劇。私たちは彼らの悲劇を見たからこそ、同じあやまちをしないですんだのだろう、とあらためて思う。私が生きているのは彼らから学んだおかげなんだと、つくづく思う。  

 12人の仲間が粛清された悲劇。それをあのような感動的な映像に仕上げたのは若松監督の情熱によるものだろう。 あの時代の映像のイメージ。役者の迫力ある演技。ともに素晴らしかった。歴史に残る名作になることだろう。



 この日の龍さんは椅子でくるっと回ってなかった。壁と机と椅子の距離。くるっとまわると足がひっかかって回れない。そのせいか髪に手を当て、おでこを見せる。一面に広がる額。

 よくみると龍さんは77歳というのに髪がふさふさしている。それにグレイだから黒髪がかなり残っているに違いない。だから後退していない立派な額だ。どうどうと見せ、「どうだ。フサフサだろう」と見せつけたらいい。いや、龍さんほどの人はそんなところで自慢なんてしない。

 彼は主張の世界でのこだわり以外はあまり構わない人に違いない。今日は赤のタータンチェックのシャツにジャケットを羽織っている。だから若い格好だ。どこも違和感なく受け入れられてしまう。いや、こんなことを言っては失礼だろうけれど、かわいく思えてしまうのは私が女性だからだろうか? 元戦旗の荒さんとは違ってかわいい。


 さて、龍先生は3月25日の「女たちにも言わせて国防論、そして男論」はどうだったか、どんな話だったか関心を示した。女性ばかりだから家族の話が主体だったと話した。「そうですか。私なら、国防を語るなら、まず占領軍と闘うべきだと思いますね」

確かに最近のアメリカ軍の不祥事は目にあまるものがある。タクシーの運転手が虐殺される。強盗にあう。女性が強姦される。

 それは何故か? 彼らはアメリカのために来ていて、日本人のために来ているのではない。だから日本人より上だと思っている。それは上官からしてそうだ。下級の兵士は上官から厳しくされ続けた腹いせをさらに弱い非武装の日本人に向けられて発散させる。


 太田龍さんは明治以降ずっと日本の天皇はイルミナティの支配下に入っているという。特に昭和がひどくなったらしい。明治天皇はまだ、日本人としての意識を持って子供時代を送っている。そして長州と一部の薩摩の取り計らいでイギリス王室からガーター勲章をもらっている。だから苦しんでいる。

 しかし昭和天皇はその裏を知った軍人たちの決起を処刑によって報いた。なぜ死刑にする必要があったのか?そして占領軍の駐在をまっさきに認めたのは昭和天皇だった。だから政府も何も言えなかったらしい。

 その間の書簡のやりとりがアメリカで情報公開されている。その情報が日本でも流れたけれど、すでに書店からは姿を消しているという。

 安保闘争の高揚の時代は過ぎた。しかし、「他国の軍隊が存在しているのはなぜか?」という問いさえも忘れてしまっていいのだろうか? すぐに新しい話題に飛びつき、本質を考えさせない報道。でも時に自分の頭で問いかけてみないと、とんでもない現実になってしまうかもしれない。