早見慶子の十条日記

ここのところ新聞報道にはいい加減にウンザリしている。小沢一郎氏のお金の問題のことであるけれど、「国民を裏切った」「国民に謝罪を」と大きく書かれているのだけれど、いかがなものだろうか? 

本当はきちんと説明を聞いてスクープを書きたい記者の名誉欲そのもではないだろうか? 「検察」より「国民」という言葉を書けば政治家を精神的に追いつめて何かしゃべるだろう、という自己都合そのものがちらついていて、不愉快な気分だ。

そう、民主党の人事させも動かせるし、首相さえ首を切れるという、まさに権力欲そのものをむき出してにしている自分に気づかないとは哀れである。

政治の重要なポジションにつく人の仕事が、政策を考える時間より、メディアでの発言の受けを考えるようになってしまったのは、2000年以降顕著でさる。そもそもスキャンダルを追いかけ、実際の政策がこまごま決まっていることをきちんと報道しないことこそ、メディアの国民に対する冒涜ではないだろうか?

各業界の法律は毎年、いろいろ変化し、そのことで業務も変わらざるをえない。そういうことのほうが政治にとっては大切なはずだ。

お金のことを言うなら、鳩山さんのようにお金持ちなら、汚く金儲けしなくてもお金はある。けれど田中角栄を筆頭にお金のない者は人から集めなくてはならない。それだけ、お金のかかる選挙こそ問題にすべきなのに、ピントの外れた報道だ。

つまり、なぜそういう問題が起こり、どうしたら解決できるのか、という視点がないまま、逮捕されることが楽しいかのような報道こそ「国民」を侮辱した行為なんだと思う。そう、麻生首相が「漢字を間違えて読んだ」ときのように。

多くの働く者たちは漢字は読めなくても、政策の影響は理解できるのだ。けれど、現場にいない記者たちは政策の影響が実感として理解できないので、自分たちの得意な漢字や、スキャンダルを暴くことのみに精力的になってしまうのだろう。

 国民の知りたいのはスキャンダルじゃない。けれど悲しいかな、報道されれば気になってしまうのだ。だからこそ違うだろ、大切なのは政策なのだ、何でそこを報道しないんだ、と言いたい。

国民の多くは小沢さんの退陣を望んでいるかのような報道は詭弁だ。あのような報道を流すから、国民の反応が流されているだけで、マスコミの報道イメージが左右しているだけなはずだ。つまり、マスコミこそ権力だということだ。

政治家にお金がないと辻本さんや山本さんのように秘書給与をピンハネしないと選挙ができず、むしろ小沢さんは人にお金を流すため悪をかって出たのだろう。

それを素晴らしいとは思わないけれど、文句ばかり言う無責任なマスコミや大衆よりはマシではないかと思う。こんな時代、誰だって不安定な選挙を戦いたくないし、何をやってもケナされる政治家なんてやりたくないだろう。

そう思うと私も政治家に挑戦して、文句を言う側から叩かれる側に積極的に出てみようとも考えるようになってきた。政治家になるか、医療関係のNPOを立ち上げるか。政治家を目指す場合は東京を離れることを考えるけれど。

そう、今年のテーマはいろんなことの実践をし、評論より行動をしようと思う。

さて、その一つに超能力教室を開く、ということを考えてみた。これを身近な人に話してみたら、あまり関心なさそうな顔をされてしまった。

どうやらかなり突拍子もない発言にうつったらしい。けれど、私としてはこれからは2012年に向けてアセンションが注目されることは間違いないと思っている。

これまでは1999年などは地球の破滅、世界の破滅かのようなイメージで負の要素が強かったけれど、2012年はちょっと違う。破滅と同時に新しい時代の幕開けというイメージが平行して存在している。

いいイメージではアセンションによって人間の次元が上昇するという主張である。もちろん個人差があるけれど、イメージは伝播する。

マスコミがケナせば、政治家の人気が落ちるように、人がアセンションすれば連鎖する可能性もあるだろう。

次元上昇の一つには超能力を身につけることも含まれる。つまりこれまで、人間の頭はデータや視覚、聴覚に捉われて生きてきた、ということだ。

だからスプーンは金属だから曲げにくいというイメージがあると曲げられない。ちなみに都市伝説外伝!超能力でスプーンを曲げているおばさんが映っていたけれど、あの程度なら私も簡単にできると思った。

念じなくても普通のスプーンなら簡単に二つに折れる。やり方を見せると男性なら誰でもできたけれど、女性はそうでもなかったようだ。

コウピュータの超能力診断をしたら65%で上質のセンスありになっていたから、訓練をしてみたいと思ったのだ。けれど、一人で訓練をするのは根気がいる。

コンピュータゲームは一人で簡単にできるけれど、超能力トレーニングだと短距離走を何本もやるような退屈さがあり、人がいて、タイムをチェックしてくれるなどがないとすぐにやめてしまう自分がいる。

それで思いついたのだけれど、どうだろうか? 誰か興味を持った人がいたら、メールで連絡して欲しい。

さらに追求してみたいテーマに宇宙人がある。たいてい左翼に宇宙人と言うと相手にされないし、職場でもそうである。

けれど自分の本当の姿は宇宙人ではないだろうか? という子どものときからの疑問を探求してみたくなったのだ。

先日設楽さんと飲みにいったときのことだ。カクテルを口にしながら、前世の話をした。彼は前世の話までならつきあえるよ、と語り、「次に生まれるならどこの国がいい?」と聞いてきた。彼は「僕はブラジルがいいな。とても自由な雰囲気があり、人間の深さもあるし」と言った。

「私は金星がいいな」と言った。彼は「金星ってどんな社会かわからないから」と言った。

「金星って貨幣がなく、人間がテレパシーで話すところだよ。大きなドームががあって、七色の噴水もあり、図書館だってあるんだよ」と私は言った。

金星社会の詳細はかなり詳しく語れると思う。その世界はアストラル世界なので、振動数が少し違うから、敏感な人でないと見えないかもしれない。

日本にはいまだに金星人のファンがそこそこいるようだから、そうした理想の社会をこの地球に築き上げられたらいいと思った。

でもお金が好きな地球人が多いとすると簡単に変わるものではないかもしれない。それでも同じバイブレーションを持った人が仲良くすることで、新しい自分が発見できるかもしれないと思った。

これまで封印してきたことを2012年に向けて、思い切って表現していこうと思う。


2010/1/11 月曜日

年の初めにマジック

Author: 早見 慶子

 最近マジックにはまって百円ショップでいろいろ買い、種あかしを楽しんでいる。

 マジックの面白さはそのトリックだけにあるのではない。そのトリックをどのように見せるのか、ということをマジシャンは考えている。ミスターマリックは季節感、情緒のある演技をする。マギー伸司はジョーダンがうまいし、セロは感動するような器用さがある。

 マスコミは民主党を叩くのに生きがいを見出しているようで、品位のない無責任な記事には閉口している。そんなに貶したいのなら、自分で政治家になればいい。

 自分ができないことを人がしていないと言っては、文句を言うのは誰でもできることである。けれど、人を楽しませるのは努力が必要なので、そういう実行する人に私はなりたい。

 子どものときからトランプが好きだった私は、ゲームをやっても強かった。手品の本を読んで親を相手にやってみると喜んでくれた。

 けれど、テレビで見るマジシャンはとても器用にトランプを扱う。手の小さな私はマネができなくて、シャッフルの練習を一生懸命やったことを思い出した。

 舞台に立つ人は、何度も練習し、器用に扱い、トークの練習だってしたに違いない。

 トランプのカードが移動したり、相手の引くカードを予言する。これまで理由がわかなかったけれど、科学的なマジックはさらに不思議だ。私たちは欲しい物を買う習慣になってから、物とコミュニケーションすることが減ってしまったように思う。

 だから一円玉の性質や水の性質についてあまり考えることはない。けれどそれらの性質を使って、水の表面張力で、水が穴から流れないだとか、一円玉が飛んでしまうとか、物質自体の性質がとても面白いことがわかった。

 大学のときに有機化学が嫌いだったけれど、記号を人間だと思うと、愛情が沸くようになったことを覚えている。それぞれの分子に性質があり、結合しやすい人とそうじゃない人がいる。熱によって性質がかわるのも、火事があれば、その街がかわってしまうから、新しく生まれ変わるんだとか・・・

 マジックの中でもトランプやリング、チェーン、コインなどありきたりものが、一見ありえない状況を創り出してしまうから、私たちには驚きなんだろう。

 けれど、百円ショップで売られていると、種を知ってしまう人が増えるから、トリックがバレやすくなると、喜びが半減してしまわないだろうか?

 Mr.マリックのセリフ「人を楽しませるのはトリックではない。マジックをする人が楽しませるのだ」にすべてが語られていると思う。

 歌も音楽を知っているから、聞くのに飽きるということはない。実演する人が上手であれば、何度見ても楽しめるはずだと思う。

 少し上手になったら、イベントのときに使ってみても面白いと思う。どうだろうか?


2009/12/29 火曜日

この一年をふり返る

Author: 早見 慶子

今年の自分につていはロフトで赤木智弘さんと対談したことから、始まり、忙しい一年だったと思う。

本を書くためにパートになったのだけれど、シフト数が少ないので、別の薬局に勤めたのだけれど、二ヶ月の間に八人もの事務の人が辞めるほど、厳しい運動部体質の職場だった。これまでの職場が人間関係がとてもよかったので、硬直した関係は見てて辛いものがあったけれど、自分を鍛えるためと、続けてきて、結局来年も働くことになってしまった。

そのあいまを縫って「カルト漂流記・オウム篇」を出版することができた。もともとはオウムの死刑囚たちが、一歩違っていたら、社会で活躍できる人間になっていたと思うと悲しくて書いた本だった。

オウムについてはすでに社会的に抹殺されているらしく、マスコミでもほとんど取りあげてくれなかった。けれど、あの裁判がオウムだけの問題にすりかえてしまったことは事実だから、おかしいと思っている人も少なからずいることがわかったことはありがたいことだった。

そのからみでジュンク堂で島田裕巳さん、大澤信亮さんと対談できて、軽蔑することで問題を捉えず、理解しようとする空間ができたことはとてもよかったと思う。

今の運動の中ではホームレスが最も人権がないと思っている人も多いけれど、死刑を待つために監獄にいるほうが苦しいのではないだろうか?

少なくともホームレスの人たちは青空を見れるし、自由に歩くことができる。閉じ込められた人は看守の許可がないと何もできないし、自由な会話だってできない。

出られるときは死んだときだけだし、自殺しないように管理され続けているのだ。けれど、もっと過去の時代は劣悪な環境で、拷問もあったことを考えれば、まだ現代のほうが、改善されているのかもしれないけれど。

法政大学でもいろいろな学生が逮捕されて、運動をする学生が退学となり、いよいよ厳しい状況になってきているのが現状ではないかと思う。

再生の前の破壊。若い人たちの情熱はいつの時代も破壊的だったりするけれど、その中で何かを感じれば、それは素晴らしい生き方なんだと思う。

だから、死刑に確定した井上嘉浩さんもきっとその絶望の中で、別次元の光を見出すに違いない。私はそう信じている。賢人たちが監獄の中で、さらにその偉大さを増してきた歴史は数え上げたらキリがないのだから。

ニューヨークに行ってイベントができたのは楽しいことだった。去年より寒かったから、公園で長居はできなかったけれど、あの広さと、人々の寛容な心は日本の萎縮した環境と比べてとてもノビノビできてよかったと思う。

そんな中で政権交代、オバマ氏の大統領就任とノーベル平和賞の獲得という不思議な現象が世界で起こっていた。

私はもともと選挙なんて茶番だと思っている。得に二大政党制はみんな違う意見をムリに二つにして、統制しようとしているように思えて、自然ではない。

本当の人間の自由とは政府の干渉がなくても生きられる強さを人間が取り戻すことなのだ。今の左翼運動の流れは政府からいろんなことを保障してもらおうと、依存度を高め、自立することとは全く違った道を歩んでいるように感じた。

人間は本当は何でもチャレンジできるし、ヘタでも楽しめればいいのだと思う。子どものときは何でもやらされるし、こなす柔軟性がある。けれど大人になると飲みに行くことしか思いつかなくなる。何でだろう。

一日の大半を職場で過ごすうちに、休みのときは眠ることしかできなくなってしまうのは、他人の人生を生きているようなものだと思う。

そういろんな文章を書きながら、私の夢はみんなが自分の強さを思い出すこと。他人に依存しなくても一人で充分強いことを思い出すこと。その上で人との関係を依存関係でなく、対等な友人関係にしていくことだ。

人が人を軽蔑しているうちは本当の自由はない。自由とは何もにもとらわれないことであり、それは環境が劣悪でも自分を見失うことのない精神の解放なのだ。

そういう意味では死刑を待つ人たちも、最大の試練と苦悩を持ちながらも、最高の精神に自分を高めるチャンスを得たのかもしれない。

まだまだ自分の弱さもあった年であるけれど、弱さがあるということは、強くなれるということだから、もっといろんなことに挑戦できるようにがんばりたいと思う。


2009/12/14 月曜日

井上嘉浩君に死刑判決

Author: 早見 慶子

『カルト漂流記・オウム篇』で井上君について書いたけれど、何の声も届かず、彼は死刑になってしまった。

当時まだ25歳であったことを考えると、人生の重たさを感じる。私のほうが年をいっていた分、かろうじて沈滞している左翼にひっぱられてしまっただけである。私は過激派。そして井上嘉浩君はチベット密教を教義とする宗教だ。

選ぶ組織、指令された任務で人の人生はこれほど変わってしまうものだろうか? 現実の社会に感じた矛盾、それを変えようとして、市民社会の物質的豊かさを拒否してまで生きた純粋さ。

霊的に見たとき、人の生命とは永遠である。だから行為する動機こそが重要だろう。もともとは人間の解放を夢見て、オウム真理教に入ったはずだ。もちろん彼の中に任務に逆らったら、自分が殺されるという不安と、認められたいという弱さがあったことは事実かもしれない。

けれど、それはほとんどの人間がそうではないだろうか? 今の時代、先進国の贅沢と金融資本の支配のために働いているのである。

不要なものであっても売りつけないと生活できない。それは政治的指導者が人々を豊かにするより、世界を支配している資産家に媚びている結果、こうした現実がつくられているのに、従うことしかできないのだ。

そう、それは集団に属したとき、人はそのトップの指令に従うように生活をする。かつてアメリカでこんな実験をした。

人間に電気を流し、ある数字を越えると死亡するということを被験者に伝えた上で、人間に電気を流すのだ。もちろん電気を流される人は役者で、流されているフリをし、苦しんでいる演技をする。

医師はそれでも電気を流せと命令すると、致死量を越えても流し続けたという。これは何人にも同じ実験をして同様の結果を得られたという。

つまり、人間は苦しんでいる人より、自分に指令を下す人間を信じて、従ってしまう習性があるということだ。

だから、出される指令によって何をするのか違ってくる。

それを考えると、死刑執行人というのも指令に従って人を殺す人間だし、看守も監獄という虐待システムに協力をする命令に従う人間として同じことである。

もっと巨大な国家という権力に従う人殺しは許容されている。けれど、霊的にみれば、同じ人殺しである。もちろん判を押す大臣も人殺しであることに間違いない。みんな大衆の死刑願望や、権力の圧力で、自分を守るために人を殺しているのではないだろうか?

だからオウムの人々はもともとの冷酷さとは違う、優等生であったことが問題だったのだと思う。

その上でこの事件、一部ではすでに気づいているように暴力団、ロシア、北朝鮮、台湾マフィア、CIAなど複数の集団がオウムに目を向けて、複雑なかかわりをしてきている。けれど、なぜオウムだけに責任を転化する必要があったのか?

今騒いでいる大麻を吸う芸能人。なぜ末端の使用者が逮捕されて、売っている人たちが逮捕されないのか?

それは逮捕できないのではなく、逮捕したくないからではないのだろうか? そう、大衆を統治したい権力者にとって、利用価値が高いからだ。

大衆は末端の処刑を見て、火事場の火をみるような興奮のほうが真相よりも大切なのだろうか?

オウム事件の中心にいた村井さんを殺した人は、なぜ村井さんでなければいけなかったのかを明らかにしないまま、指令を与えた暴力団幹部を放置しているのは何でだろう?

事件の真相を隠したまま、死刑にするだけでいいのだろうか?

その上で、信者たちの置かれた苦境のことを考えてみたい。

結局人は死ぬ。いや、肉体は滅びる。けれど、人の魂が永遠であるとするなら、今この世でつぐなえることは幸福なことかもしれない。

過去の歴史で真剣に生きてきた人々の多くは、ローマ帝国の時代からあからさまな残虐刑によって殺されてきたのだ。

逃げることなく、腐敗を指摘して殺されていった人たち。ソクラテスもキリストも処刑されている。

その勇敢な生き様によって、多くの人に影響を与えることができたのだ。知的で愛に満ちた生き方。

オウムの人たちにとって、もし人を殺してなかったら、もっと誇りを持つことができたに違いない。それは自分で自分を見つめたとき、どこか汚点のように残ってしまう傷跡だ。

一人一人が自分の内面にこそ従う勇気があったならば、教祖や幹部の指令をいったん自分で租借しただろう。けれど、自分の意識をいったん別人に占領させてしまったのだ。

けれど、そのことは一番本人が苦しんでいることに違いない。

たぶん人はどこかの過去生で人を殺した人生もあったし、殺された人生もあったはずだ。

大切なことは過去に執着せず、未来を生きることだ。そう、人のために生き、自分や他人の罪を許すのだ。

この時期、監獄は寒いだろう。自由のない空間が永遠に続くことは絶望的かもしれない。けれども、その中で、心の天国を見出してほしい。

私は、オウムの信者のような罪びとが、今、多くの人々に勇気を与えていることを知っている。今、彼らたちの心はピュアなのだ。

また、死刑を叫ぶ人たちも、いつか自分の心の貧しさに気づくだろう。復讐は結局、新たな憎しみを作り出していくだけなのだと。

カルマは憎しみという執着によってつくられていくのだから、愛によって連鎖を断ち切り、自由になったほうがいいと気づくだろう。

彼らたちの罪は私の罪。多くの人に役に立つような生き方をしたいと思う。損得を抜きにした思いやりで。