早見慶子の十条日記

鹿砦社主宰の飲み会のときに昼間たかしさんから「おやすみアンモナイト」のチケットを買った。

素人の乱を扱っていたので、ちょっとばかり興味がわいた。批判するためだけに労力を払う運動とは違い、自力で生きようとするスタンスは人間本来の姿だと思うからだ。

昼間たかしさんは素人の乱に「博愛」を感じ、そこに人間の求める本質があると語っていた。

批判を中心とした運動と助け合うことを中心にした運動と何が違うのか?

批判は弱い市民が強い権力に文句を言うことで政府がよくなっていくことを期待するところにそのベースがある。

けれどこれは本当は違う。市民が弱くて権力が強いというのは権力者の発する幻想を受け入れた結果生ずる、マインドコントロールの結果にすぎない。本当は人間は一人で生きられる強さを持った存在だから、権力者の加護がなくても充分に生きることができる存在だ。

自分では何も生み出すことのできない権力者に比べ、市民は農産物を作り、工業製品を作り、情報をささえるテクノロジーを担っている。つまり現実の価値を創造しているのは、働いている市民のほうである。

権力者はお金を取り立てて、そのお金を使う権利により、市民よりも大きな存在であるという錯覚をさせている。

批判にすぎない運動は「生活保護をくれ」「仕事をくれ」「お金をくれ」ということで、政府に税金を取り立てる正当な理由を与えているにすぎない。

どんなにお金があっても権力者のポケットマネーが流れるのは選挙資金くらいであり、政策の費用は税金によるものなのだ。

だから既存の権力に頼らない運動こそ人間の自由と尊厳を守る闘いなのだ。

けれど、働くのは辛いこともある。いや、労働は喜びにもなるけれど、人間関係によって疲れてしまうことのなんと多いことだろう。

そんなとき勇気を与えてくれるネットワーク。そんなひとつに素人の乱がある。

自分たちで創造していく活動は責任がかかり、誰の責任にもできない。批判の運動は政府が変わらなくても、反対を唱える人が悪いのではく、常に責任を政府に求めるから、自分の孕む問題点を見過ごしてしまうことがほとんどだ。

 この映画では貧乏でも工夫しながら逞しく生きていく人間像が爽やかな印象を受けた。

 萎れたネギと牛丼ですき焼き鍋を作り、おいしいと言って食べる若者。ガンジーはおなかがすいていればなんでも美味しいと言っていたけれど、私も山で12時間歩き回ったとき、その言葉が真実であることを実感した。

 そして何よりも人情が通いあうから、美味しく感じるのだろう。

そのストーリーと平行して、演劇をするために夜の仕事をする女性も、人間関係のいじめにあいながら、がんばっていて明るい。もちろん夜の仕事だけでなく、普通の昼の仕事にも露骨ないじめだってあるし、貧乏と関係なく、働く人のほとんどが自由時間のない日々に追われているのが現状だけど。

 ところでこの助け合う人々は貧乏だからこそ、そうなるのだと思う。戦後の時代は私の親も隣の人とお金の貸し借りをしあいながら、生活をしていたと聞く。給料日前はお互いによくあることだから気にしなかったらしい。

 それに合鍵を隣の家に預ける習慣があった。鍵をなくしたとき、家に入れるようにするためらしい。それほど人間同士信頼しあっていたのだろう。

 現代も下請けや現場労働者が引越しをするときは、職場の同僚が手伝ってくれるのはよく見かける光景だ。

 けれど、大手企業に勤める人は、引越しの人に頼んでしてもらう。プロの手際もいいし、払うお金もあるから、気兼ねしなくていいのだろう。

 現代のように人間関係の冷え切った時代、温もりを思い出させてくれる映画だった。

 ちなみにこの映画、知った顔がいっぱいあって嬉しかった。乾君、増山さん、昼間さん、映画監督の増田俊樹さん、他にも見たことのある顔がいた。

 特に松本哉さんは演技のほうも上手で、役者としての才能もあるのではないか、と思ってしまった。

 これまで映画が遠い世界の出来事だったけれど、身近に感じられて楽しかった。


2010/2/22 月曜日

朝青龍の引退について

Author: 早見 慶子

なんだかんだ言っても相撲の人気は朝青龍と一体だったのではないか、と思う。モンゴルでノビノビ育った人間が日本の相撲界というシキタリの古い世界で、型にはめられ、マスコミからやんのやんの言われてもよくがんばってきたのではないだろうか?

 私は彼のような型にはまりきれない人間は好きであるし、日本人社会という狭い世界でしか生きられない人間に抵抗するのは、とても好ましいと思っていたのだった。

 そもそも日本人の若者を育てることができない大人たちが、モンゴルから人間をスカウトして人気を維持してきのではなかったか?

 朝青龍の日本に貢献したことに触れることなく、貶す思いやりのなさは同じ人間としてむしろ悲しいとさえ思ってしまう。

 言語の壁、習慣の壁を越えることは大変である。それをがんばれたのは、彼の精神力ではなかったか?

 一般人を殴るのはよくないけれど、私も殴られた経験があり、鼻骨を骨折したときは大変だったけれど、他人の責任にしたことはなかった。

 女性なのに顔が腫れている。喧嘩としか思われない覚悟をして、職場に行く。顔を見られる緊張感。

スタッフだけでなく、患者さんからも同情され、ものすごく恥ずかしかった。けれど羞恥心に抵抗できる強い人間になれたのだから、何か内面的には得るものがあったと思う。

 そして言葉によって相手の暴力を誘発することがあることも学んだ。そもそも暴力で男性に勝つことはできないから、相手の抗戦意志をいかに萎えさせていくのか、と自分の戦い方をかえる教訓にもなっていったものである。

 一般人といえども男性であるのだから、どういう理由で喧嘩になったのか、それはお互いに反省すべき問題ではないだろうか?

 なぜ社会は一方が加害者で一方が被害者であるかのような、誤った観念をつくり上げてしまうのだろうか?

 大切なのは自分の人生を自分でコントロールする力をつくっていくことであり、成長しようとする強い意志ではないかと思う。だから一方的に朝青龍の責任ではないはずだ。

 朝青龍はメディアによって引退に追い込まれたようなものであり、あのいたづらっけある笑顔をあまり見れなくなるとするととても寂しい気がした。

 彼は相撲で楽しかった想い出についてこう語った。武蔵丸に勝ったのを親が見てくれたことだ、と。

 親に喜んでもらえることはとても嬉しい。本国だったら当たり前にできるようなことでも異国では難しい。

 この日本が言語の壁を乗り越えてやってくる勇気ある若者にエールを送れるようになる日は遠いのだろうか?

 私は横綱でなくても、ただ働きにくるだけでもとても素晴らしい勇気だと思う。

 異国の地で語学の壁に苦しみ、習慣がわからず失敗したことのある人間なら同じように思いやりがもてるだろう。

 たいていの日本人は仕事目的で集団で外国に行ったり、ワーキングホリデー、留学など協会に守られている人が多いから、本当の異国を体験した人が少ないのだろう。

 いつか日本がもっと自由な心を持つようになったとき、いろんな文化を持った人間を微笑ましく思う余裕ができるのだろう。


ここのところ新聞報道にはいい加減にウンザリしている。小沢一郎氏のお金の問題のことであるけれど、「国民を裏切った」「国民に謝罪を」と大きく書かれているのだけれど、いかがなものだろうか? 

本当はきちんと説明を聞いてスクープを書きたい記者の名誉欲そのもではないだろうか? 「検察」より「国民」という言葉を書けば政治家を精神的に追いつめて何かしゃべるだろう、という自己都合そのものがちらついていて、不愉快な気分だ。

そう、民主党の人事させも動かせるし、首相さえ首を切れるという、まさに権力欲そのものをむき出してにしている自分に気づかないとは哀れである。

政治の重要なポジションにつく人の仕事が、政策を考える時間より、メディアでの発言の受けを考えるようになってしまったのは、2000年以降顕著でさる。そもそもスキャンダルを追いかけ、実際の政策がこまごま決まっていることをきちんと報道しないことこそ、メディアの国民に対する冒涜ではないだろうか?

各業界の法律は毎年、いろいろ変化し、そのことで業務も変わらざるをえない。そういうことのほうが政治にとっては大切なはずだ。

お金のことを言うなら、鳩山さんのようにお金持ちなら、汚く金儲けしなくてもお金はある。けれど田中角栄を筆頭にお金のない者は人から集めなくてはならない。それだけ、お金のかかる選挙こそ問題にすべきなのに、ピントの外れた報道だ。

つまり、なぜそういう問題が起こり、どうしたら解決できるのか、という視点がないまま、逮捕されることが楽しいかのような報道こそ「国民」を侮辱した行為なんだと思う。そう、麻生首相が「漢字を間違えて読んだ」ときのように。

多くの働く者たちは漢字は読めなくても、政策の影響は理解できるのだ。けれど、現場にいない記者たちは政策の影響が実感として理解できないので、自分たちの得意な漢字や、スキャンダルを暴くことのみに精力的になってしまうのだろう。

 国民の知りたいのはスキャンダルじゃない。けれど悲しいかな、報道されれば気になってしまうのだ。だからこそ違うだろ、大切なのは政策なのだ、何でそこを報道しないんだ、と言いたい。

国民の多くは小沢さんの退陣を望んでいるかのような報道は詭弁だ。あのような報道を流すから、国民の反応が流されているだけで、マスコミの報道イメージが左右しているだけなはずだ。つまり、マスコミこそ権力だということだ。

政治家にお金がないと辻本さんや山本さんのように秘書給与をピンハネしないと選挙ができず、むしろ小沢さんは人にお金を流すため悪をかって出たのだろう。

それを素晴らしいとは思わないけれど、文句ばかり言う無責任なマスコミや大衆よりはマシではないかと思う。こんな時代、誰だって不安定な選挙を戦いたくないし、何をやってもケナされる政治家なんてやりたくないだろう。

そう思うと私も政治家に挑戦して、文句を言う側から叩かれる側に積極的に出てみようとも考えるようになってきた。政治家になるか、医療関係のNPOを立ち上げるか。政治家を目指す場合は東京を離れることを考えるけれど。

そう、今年のテーマはいろんなことの実践をし、評論より行動をしようと思う。

さて、その一つに超能力教室を開く、ということを考えてみた。これを身近な人に話してみたら、あまり関心なさそうな顔をされてしまった。

どうやらかなり突拍子もない発言にうつったらしい。けれど、私としてはこれからは2012年に向けてアセンションが注目されることは間違いないと思っている。

これまでは1999年などは地球の破滅、世界の破滅かのようなイメージで負の要素が強かったけれど、2012年はちょっと違う。破滅と同時に新しい時代の幕開けというイメージが平行して存在している。

いいイメージではアセンションによって人間の次元が上昇するという主張である。もちろん個人差があるけれど、イメージは伝播する。

マスコミがケナせば、政治家の人気が落ちるように、人がアセンションすれば連鎖する可能性もあるだろう。

次元上昇の一つには超能力を身につけることも含まれる。つまりこれまで、人間の頭はデータや視覚、聴覚に捉われて生きてきた、ということだ。

だからスプーンは金属だから曲げにくいというイメージがあると曲げられない。ちなみに都市伝説外伝!超能力でスプーンを曲げているおばさんが映っていたけれど、あの程度なら私も簡単にできると思った。

念じなくても普通のスプーンなら簡単に二つに折れる。やり方を見せると男性なら誰でもできたけれど、女性はそうでもなかったようだ。

コウピュータの超能力診断をしたら65%で上質のセンスありになっていたから、訓練をしてみたいと思ったのだ。けれど、一人で訓練をするのは根気がいる。

コンピュータゲームは一人で簡単にできるけれど、超能力トレーニングだと短距離走を何本もやるような退屈さがあり、人がいて、タイムをチェックしてくれるなどがないとすぐにやめてしまう自分がいる。

それで思いついたのだけれど、どうだろうか? 誰か興味を持った人がいたら、メールで連絡して欲しい。

さらに追求してみたいテーマに宇宙人がある。たいてい左翼に宇宙人と言うと相手にされないし、職場でもそうである。

けれど自分の本当の姿は宇宙人ではないだろうか? という子どものときからの疑問を探求してみたくなったのだ。

先日設楽さんと飲みにいったときのことだ。カクテルを口にしながら、前世の話をした。彼は前世の話までならつきあえるよ、と語り、「次に生まれるならどこの国がいい?」と聞いてきた。彼は「僕はブラジルがいいな。とても自由な雰囲気があり、人間の深さもあるし」と言った。

「私は金星がいいな」と言った。彼は「金星ってどんな社会かわからないから」と言った。

「金星って貨幣がなく、人間がテレパシーで話すところだよ。大きなドームががあって、七色の噴水もあり、図書館だってあるんだよ」と私は言った。

金星社会の詳細はかなり詳しく語れると思う。その世界はアストラル世界なので、振動数が少し違うから、敏感な人でないと見えないかもしれない。

日本にはいまだに金星人のファンがそこそこいるようだから、そうした理想の社会をこの地球に築き上げられたらいいと思った。

でもお金が好きな地球人が多いとすると簡単に変わるものではないかもしれない。それでも同じバイブレーションを持った人が仲良くすることで、新しい自分が発見できるかもしれないと思った。

これまで封印してきたことを2012年に向けて、思い切って表現していこうと思う。


2010/1/11 月曜日

年の初めにマジック

Author: 早見 慶子

 最近マジックにはまって百円ショップでいろいろ買い、種あかしを楽しんでいる。

 マジックの面白さはそのトリックだけにあるのではない。そのトリックをどのように見せるのか、ということをマジシャンは考えている。ミスターマリックは季節感、情緒のある演技をする。マギー伸司はジョーダンがうまいし、セロは感動するような器用さがある。

 マスコミは民主党を叩くのに生きがいを見出しているようで、品位のない無責任な記事には閉口している。そんなに貶したいのなら、自分で政治家になればいい。

 自分ができないことを人がしていないと言っては、文句を言うのは誰でもできることである。けれど、人を楽しませるのは努力が必要なので、そういう実行する人に私はなりたい。

 子どものときからトランプが好きだった私は、ゲームをやっても強かった。手品の本を読んで親を相手にやってみると喜んでくれた。

 けれど、テレビで見るマジシャンはとても器用にトランプを扱う。手の小さな私はマネができなくて、シャッフルの練習を一生懸命やったことを思い出した。

 舞台に立つ人は、何度も練習し、器用に扱い、トークの練習だってしたに違いない。

 トランプのカードが移動したり、相手の引くカードを予言する。これまで理由がわかなかったけれど、科学的なマジックはさらに不思議だ。私たちは欲しい物を買う習慣になってから、物とコミュニケーションすることが減ってしまったように思う。

 だから一円玉の性質や水の性質についてあまり考えることはない。けれどそれらの性質を使って、水の表面張力で、水が穴から流れないだとか、一円玉が飛んでしまうとか、物質自体の性質がとても面白いことがわかった。

 大学のときに有機化学が嫌いだったけれど、記号を人間だと思うと、愛情が沸くようになったことを覚えている。それぞれの分子に性質があり、結合しやすい人とそうじゃない人がいる。熱によって性質がかわるのも、火事があれば、その街がかわってしまうから、新しく生まれ変わるんだとか・・・

 マジックの中でもトランプやリング、チェーン、コインなどありきたりものが、一見ありえない状況を創り出してしまうから、私たちには驚きなんだろう。

 けれど、百円ショップで売られていると、種を知ってしまう人が増えるから、トリックがバレやすくなると、喜びが半減してしまわないだろうか?

 Mr.マリックのセリフ「人を楽しませるのはトリックではない。マジックをする人が楽しませるのだ」にすべてが語られていると思う。

 歌も音楽を知っているから、聞くのに飽きるということはない。実演する人が上手であれば、何度見ても楽しめるはずだと思う。

 少し上手になったら、イベントのときに使ってみても面白いと思う。どうだろうか?