早見慶子の十条日記


なんとも言えないイベントだった。それは成功したか、どうかでは語りつくせない何かを感じた。


たぶん終わった後の印象度の強さでは今回が最高だろう。
私の心に一番やきついたのは、会場の人たちのやりとりであった。
そもそも「革命論」を聞きに来る人たちはどういう人たちなのだろうか?

何か考え、社会に不満を感じるからこそ、きっと足を運んだのに違いない。

会場に登場した最初から、ロフトの児玉さんにいろいろ抗議をしている若者がいた。

私はよくわからなかったけれど、「こんなイベント中断させろ。ロフトが管理する責任がある」というような趣旨のことを言っていたので、とりあえず、その場に割って入った。

朧塚さんは歌を歌う予定だったけれど、中断してしまったようだ。

何かが起こりそうな幕開けだった。


そしてその「何か」は起こった。
乱入し、イベントへの不満を語る若者と、その無礼な態度を批判する若者たち。

会場は騒然となり、怒号が飛び交う。
私は、会場の人たちの勇気に感動した。あのような雰囲気で、言葉を投げかけるのは勇敢でなければできない。けれど、あの若者も勇気をもって乱入したのだろう。
主催の朧塚さん、TTさんもきちんとマイクで冷静に話しかけていたから、なんと立派な対応だろうと思って見ていた。


それに質問をしてくれた女性。「人とうまくやっていけないときに、相手を受け入れようと努力して、自分が何かわからなくなった」と語ってくれた。女性社会ではいつも絶対折れない人が少なからずいる。

私は責任者をしていたとき、Aさん、Bさんの対立に介入しなくてはならなくなったことがある。

こちらからみるとどちらも一理あるのだけれど、お互いに相手の悪い部分を許すことができない状況だ。

私は自分が人を赦せるかではなく、他人が人を赦すように対応することが課せられたわけだ。

ずっとこの状況が続いたとき、職員から嫌われてしまったヒステリックなAさんがやめることで職場に平安が訪れた。


人が人を受け入れるということは難しい。そんな大きな問題点をつつくような質問だったので、とても感激した。若いのにしっかりとした内容だったので、もっと話をしたかった。
いろんな人と出会えて私はすごく楽しかった。
次の日が仕事なのに、朝までずっと話しこんでしまった。
千坂さんはずっと話し続けていたのに、休むふうでもない。
頭の回転がずっと続けられるのが不思議だった。

ロフトのみなさん、千坂さん、主催者、会場の人たちありがとう。


『革命論』哲学・政治・アートから見る革命
 
閉塞的な現代社会。哲学・政治・アートから、
広い意味での革命を模索する。ニヒリズムから実存主義へ、生き辛さから革命へ。
現代という時代の突破口無き時代をいかに生きていくのか、
君もあなたも議論に参加して、革命的なトークライブにしようではないか。 

【一部】 追悼の政治 ネットで注目の若手騎手・朧塚がインタビュアーとなり、政治の矛盾をえぐり出していく。今の色あせた文壇に対しても若者の鋭い視点が、容赦なく突っ込む。さあ、政治の葬送が始まる。
【二部】 近代を超克する革命 おもしろい漫談なのに過激なことを語る千坂恭二。今回は充分な時間をとり、中途半端な改良主義にメスを入れる政治の解剖が始まる。【三部】 オウムとテロリズム過激派からオウムを体験した早見慶子。若者は何を求めて仕事を捨て、出家をしたのか? 諸要求に終わるだけの今の運動とは違った視点で革命を見つめる。【四部】 政治語で語らない革命もはや主役は壇上の人間ではない。会場にいるパワフルな情熱こそ日本を変えていくのだ。多数準備したマイクの力で、ロフトの会場を主役にしていく。君もその一人だ。 


出演者


早見慶子 (「I LOVE過激派」著者 元「戦旗•共産同」メンバー」)
千坂恭二 (評論家 思想家 アナーキスト)朧塚   (インタビュアー・独立型イデオローグ  実存主義者)  

日時 2010年7月15日(木)場所 阿佐ヶ谷ロフト 

OPEN18:30 / START19:30
予約¥1,000 / 当日¥1,500(ともに飲食代別)

予約:ロフトAウェブ予約
http://www.loft-prj.co.jp/lofta/reservation/reservation.php?show_number=409
・ロフトA電話予約 03-5929-344517:0024:00)にて受付中!


知り合いになったやんちぇんさんから『僕らのカヌーができるまで』のチラシをもらっていた。自然を大切にしている人たちが、きっといっぱい出ているに違いないと思いつつ、でも、それが何でカヌーなんだろうという疑問が私の脳裏をよぎる。

自然を大切にするなら農業だ。でも、カヌーはあの立派に育った木を切り倒すのだ。樹木は人間に奉仕する霊的に高貴な存在な気がして、何となく抵抗があった。

それでもチラシの喜びに満ちた笑顔を見ていると何だか見てみたくなり、ポレポレ東中野に足を運んでみた。

思想的な世界、活動の世界は、いつも自分が正しいと信じて他人を素直に受け入れられない人が、あちこちに見受けられる。そう、人間を信頼することを忘れてしまい、他人を攻撃するときだけ結束するゆがんだプライドが、何だかいつも空ブリの抵抗のように思えて悲しすぎる世界だ。

そんな思い込みの正義とは違った世界。たぶん活動家の世界も文壇の世界も今は、都会的にいろんなことがつめ込まれて、自然をそのまま理解することができてなくなっているため、イライラしている人たちが、自分も社会もすべて否定しないと存在できない世界。

そんな被害者的な意識とは一線を画する何かを期待して、映画を見に行った。

その映画は木を切り倒してカヌーを作るという単純なものではなかった。それは一つのサバイバルの世界だった。

蹉跌から鉄を集め、製鉄する。カヌーを作る道具も自分たちで作る世界だ。その鉄も電気を使わず、古来の方法で、ペダルのようなものを踏んで、火を吹かし、製鉄をしている姿に驚いた。みんな汗をかいているけれど、とても明るい笑顔だ。

何かを創造する喜びに満ちた自然な満足感。

さらに縄をつくるため、あちこち探し、結局はインドネシアの樹皮で作ることにした。とてもシンプルにできるからだ。

さらに保存食を探すため、いろんなところに行く。それはどういうことかというと、インドネシアから日本まで旅をできるようなカヌーを作るということらしい。

商店に行って買い物をするという生活の中で、私たちは、「生きる」ということを忘れてしまった。自分が自分であることを確かめることをファッションや美味しい食べ物をコンビニで発見することくらいしかなくなってしまった私たち。

ある人たちは世の中をよくしようとやたら本を読み漁る。あるいはネットで人とコミュニケーションをしてつながっている気になる。けれど、それで何だか満ち足りた喜びに浸ることなんてできやしない。

架空の人によって与えられた空間であることに違いなく、本を読むことも文章を書くこともすごく安っぽくなってしまったみたいだ。一冊の本をくいいるように読みふけるのではなく、速読によって冊数をこなすため、知りたいところだけの記憶と抜粋さえあればいいような読み方。それはファッション業界によって作られたファッションをカッコいいと感じる世界とさして変わりない。

宣伝によって消費させられ、乱読させられているし、ネットで人気を得るために過激な内容や有名人にやたらと触れたがったりする。

それは自分の生き方ではない。

そんな現実にこの映画は挑戦している。文句を言うだけのデモなら誰でも参加できる。けれど、カヌーを自分たちで作って航海することは真剣でないとできない。

途中でやめたら意味がないからだ。私がかつてよく登った登山も途中でバテて歩けなくなっても、ふもとに戻らなければ、助からない。だからテントをはれる場所を見つけるためにとにかく歩く。そして翌日も歩く。そんな連続の中でやっと地上に戻ってこれるのだ。

けれど、このカヌーはもっと長い道のりだ。

カヌーを作るのも何度も試行錯誤する。探検家の関野吉晴さんがかつてアマゾンに行ったことがヒントになっているという。

彼はアマゾンでナイフ1本で、家も建てるし、服も作れるし、食料も確保する人々に出あった。

お金で何でもすませ、他人に作らせているため、「生きる」ことを忘れてしまった自分にハッとしたらしい。

だからなるべくそれに近いことをしてみようと思ったという。

いつもjは一人でいくところを、今度は若い人を誘った。学生だと安全に責任をとらなくてはいけないから、卒業生が協力したという。

本当の危険とはアマゾンで生きる人々だ。そこには猛獣がいる。一瞬のスキが死を招く。

けれど、現代人はちょっとケガをしただけで、騒ぐ。システムが整っていないと何一つできない。

けれど雄大な大地で生きる人には知恵がある。インディオの人たちも、かつて若い人を一人で旅をさせる習慣があった。ハゲタカに襲われるかもしれない。ヘビに襲われるかもしれない。コヨーテだっている。

夜はその辺の何もないところで寝るから、安心して眠れる家さえない。

そんな中で、恐怖を乗り越える訓練をするのだ。鼻水が出てすぐに病院に行く現代人とは全く違う世界。

そんな世界に生きる人は心が素直だ。たぶん自然を理解し、敬意をはらっているからだろう。

自然を小ばかにし、貪欲のために破壊しつくす人々と何か違う感性。

インドネシアでカヌーをつくる現地の人の真剣な眼差しはとても輝いていた。

私ももう一度この生きるということを考えてみたい。ナイフ一つでの生活。なんとカッコいいことか。

彼らの自由に生きるおおらかさは、妙に訴えかけてくるものがあった。


2010/4/30 金曜日

革命家の品格

Author: 早見 慶子

4月23日に法政大学でデモやるのに誘われて参加してみた。昨年に比べてノンセクトの人はほとんどいなかったように思う。

4月だというのに最高気温が10度という寒さは、立っているときに肌にしみこんで来た。

ところでこの集会のとき、白髪の人やOBと思われる人がやたらと警察に対してヤジを飛ばしているのが目立った。

「やーい、お前なんか警察署長じゃない。巡査部長だ」「おまえら帰れ」「お前ら恐いのか」とずっとなじり続けている。

この光景を歩く大衆が見たらどう感じるのか考えてほしいと思う。

世の中を変えるのは大衆である。大衆の支持がないクーデターは簡単に崩壊してしまうものだ。

ガンジーは裸で裸足で歩いていた。それはインドの一般人の姿をすることで民衆の側に立とうとしたのである。だからスーツを着てなくても大衆の支持は得られたのだ。

さて一般の大衆が人を説得しようとするとき、「お前ら恐いのか、恥さらしだ」という言葉は使わない。これはチンピラが人を恐喝するときに使う言葉だ。

もちろんこんな言葉を使う人たちに敬意を払う人はほとんどいないだろう。そう、彼らには革命家になるという意識が欠落しているのだ。

たぶん自分たちの勉強してきた一部の知識が正しければ人がついてくるという錯覚は、インテリにありがちな思いあがりのように思えるけれど、実はこれ、最近の活動の行き過ぎた典型のように思う。

最近は仲間を求めて集会に参加する人が増えてきたので、不満だけを語る人が多くなってきた。つまり、社会というのを客観的に分析し、何が原因でそのようになっているかを理解し、そのためには何が必要であるかを導き出して、解決できる方法をさぐるという社会をよくするための奉仕的精神で参加しているのではない、ということだ。

それは自分の不満を聞いて欲しくて参加したり、自分を認めてほしいから参加する。だから自分という限られた視野からなかなか解放されていかない。いい年をしても不平不満を叫び、なじり続けるのは、文句を言うことを目的として参加しているからだろう。

問題を解決するために参加してきて、何も解決できなければ、賢い人は自分の理想と自分の力があっていないのか、自分が解決しようとする方法が誤っていたのか、という冷静な分析をするはずだ。

かつて中核派も命をかけて活動していた時代があった。小西誠さんとは思想は違うけれど、彼の中には修羅場を生き抜いたオーラがあった。ところが今は、組織温存のための糾弾しかできなくなってしまったのは残念だ。

人間は人を尊敬するから活動に参加するわけだ。

だから革命家(あるいはリーダー)になろうとする場合、どういうような人間に自分がなっていくことなのか?という問いを自分に発さなければならない。

人に言われたら不愉快なセリフを人に向かって投げかけるべきではない。不愉快なセリフは人間の糞尿のようなものだ。人に自分を理解してもらうときに自分の好きな食べ物を与えて、これが私の好きな料理ですと差し出すならわかる。

けれど警察に向かって投げられた糞尿は大衆にもまき散っていることに気づいているだろうか?

さらに公判のときに「黙れこのブス」というヤジを飛ばしていたという話を聞いた。これはハラスメントの言葉なので、市民社会の人間が使うことはほとんどない。

活動家に品格がなくなった時代、すたれていくのは必然であろう。

本当に社会を変えようとする者は人間を大切にする人だ。明治維新のとき、勝海舟と話し合い、外国勢とも交渉する政治力があったのは、人間を理解し、大切にしていたからこそ、交渉ができたのだ。

隊列の中で「お前なんかクズだ」「このブス黙れ」とは誰でもできる。けれど人を説得することはものすごく難しい。この違いをゴマカすために協力しない大衆が悪いとか、指導者が悪いとか他人の責任しているため、自分という人間をずっと客観視できないでいるのは悲しい。

大学の総長や警察官と交渉する力を失った人たちは、大衆をひきつける魅力さえ、どんどん後退させるしかない。

そんな一コマがデモの途中であった。お弁当やさんの車がデモ隊に挟まれて出られなくなり、警察に抗議をしていた。お昼だからお弁当を早く配達しろとお客に文句を言われることは間違いない。このご時勢だ。休憩時間に遅れることは、お弁当やを切りかえられる危機でさえある。

かつてリーダーシップがあった時代は、デモ隊のリーダーがきちんと隊列を分けて、車を移動させ「お仕事お疲れさまです」と声をかけていただろう。

たぶんこのお弁当の配達の人は「仕事しない暇人が日中からデモをしていて、警察はこの人たちの味方しているんだな。何という時代なんだろう」と。

革命家の品格とは、自分より他人を思いやることであるはずだ。「人民のために命をかける」とはもはや遠い彼方の言語である。もちろんこの「人民のために命をかける」というのも取り違えると、危険な言葉であることは間違いない。

けれど、ソクラテスやキリストも処刑されてきた歴史の中で、命をかけることは心に正直に生きる者の宿命のような気がする。そこで、人間は命について考えることはしてきたはずだ。聖人は永遠の生命を理解しているから、命を失わないことを知っている。だから、肉体を失うことを恐れない。

けれど、競争社会で人間をライバルとして認識してきた若者が、急に命をかけるから、どこかで功名心と不安が一体となっているはずだ。

そして命を失うことに恐怖を感じるから、激しい闘争のときはものすごく緊張する。そんな中で判断を誤って粛清もあったことは残念だ。

ところが現代では、徒党を組んだときにだけ、ヤジを飛ばす総会屋のような働きしかできなくなってしまっている。もう少し自分たちの歴史を学び、結成時代のリーダー、本多延嘉氏に恥ずかしくないような革命家を目指してがんばってほしいと思う。

内ゲバは悲惨な歴史であったに違いない。それは負の遺産だ。けれど、その死の恐怖を果敢に生き抜いた美徳は革命家の誇りであったはずだ。もう一度誇りを取り戻してほしい。